津田清幽 【石田三成の三男を救うべく家康に直訴した侍】

津田清幽 【石田三成の三男を救うべく家康に直訴した侍】戦国時代

津田 清幽(つだ きよふか/せいゆう 生没年不明)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。織田信長の甥にあたる織田信氏の次男。和泉守。名乗りをそのまま法号とする。

慶長5年の1600年9月15日(西暦1600年10月21日)に徳川家康は天下分け目の関ヶ原の戦いにて勝利すると、翌日、2万を超える軍勢を石田三成の居城である佐和山城に差し向けこれを包囲します。この時、籠城する佐和山城の一角を守備していた兵の中にかつて家康に仕えていた武将が今回紹介する津田清幽です。この清幽、なんとこの佐和山城落城を巡る東軍の不義に怒りが爆発し、家康の本陣まで乗り込んだという剛直の士でありました。今回はそんな剛直の士についてお話していきます。

生い立ち

家康ゆかりの地である岡崎城

尾張国出身で、江戸時代に編纂された系譜集成「断家譜」によれば織田信氏の次男であるとされています。若い頃から織田信長に仕えていたとされますが、18歳の時に織田家を去り浪人となり、徳川家康の本拠地である岡崎を訪れたます。この際、徳川家重臣・阿部正勝の誘いに応じて約10年間徳川家につかえるようになります。清幽の詳しい戦歴は不明ですが、仕えた期間から察するに徳川方の重要な戦にはほぼ参加していたのではないでしょうか?

こうして10年間徳川家に仕えていた清幽でしたが、その後、再び信長に仕えるようになります。織田家と徳川家は盟友であるので、織田家に出戻りすることは特に問題はないと思うのですが、何故織田家に戻ったのかは理由は不明です。戦いの場所を求めていたのでしょうか?

石田家に仕える

徳川家康

織田家に出戻った清幽でしたが、天正10年(1582年)に本能寺の変が起きたため信長は横死します。主を失った清幽は信長の元家臣たちに仕えることはせずそのまま浪人として過ごすこととなります。この浪人時代になにをしていたかなどは不明ですが、天下の趨勢を遠くから眺めていたようにも思います。

信長横死から十数年後の慶長4年(1599年)、次の天下人となった豊臣秀吉がこの世を去り、天下が再び乱れようとしていた時のことです。清幽は秀吉亡き後、上方にて政務を取り仕切っていた徳川家康と京都伏見にて再会します。このとき清幽がどういった形で家康と再会したかは分かりませんが、天下の大決戦の前年のことですので、両者共に思うところがあったのかもしれません。

家康と再会した清幽は、その後、家康の口添えにより石田三成の兄である堺奉行の石田正澄に政所職として仕えることになります。まさかこのあと、士官先を斡旋した元家臣と意外な形で再び出会うことになろうとは家康もこの時は思いもしなかったでしょう。

佐和山城の戦い

佐和山城絵図

慶長5年の1600年9月15日。徳川打倒のため兵を挙げた石田三成の西軍と徳川家康の東軍は関ヶ原にて激突し、徳川方の大勝利に終わります。翌日の16日、家康は三成の本拠地である佐和山城を攻略すべく関ヶ原の裏切り組である小早川、脇坂、朽木、赤座、小川らに先鋒を命じ出撃させます。また、近江国の地理に詳しい田中吉政と徳川四天王の一人・井伊直政を軍監として同行させます。その軍勢約2万余りという大軍でした。

一方、これを迎え撃つ佐和山城には三成の兄・正澄と父である正継ら石田一族と大坂からの援軍を合わせた2800人の兵士。そんな圧倒的劣勢な状況の中、正澄の家臣として清幽は息子の重氏と共に佐和山城の水の手口を守備することとなります。

裏切り組代表・小早川秀秋

裏切り者の汚名を雪ぐため小早川秀秋を中心と東軍は必死になって佐和山城に攻撃を加えます。しかし、佐和山城の堅城と清幽親子らの奮戦もあり、東軍方は攻めあぐねてしまいます。これを好機と見た石田正澄は平田山本陣の徳川家康に和議を申し出ます。

清幽直訴

落城イメージ図 ※諸行無常の理様より

石田正澄の交渉の使者には清幽が選ばれ、交渉の結果、降伏開城ということとなり、城主である石田正澄の自刃の代わりに城兵や女・子供の助命を許し、翌日には佐和山城を引き渡すこととまとまりました。

しかし、ここで異変が起こります。なんと佐和山城を守備していた大坂からの援軍であった長谷川守知が東軍方に内通し、城内に東軍を引き入れ始めたのです。これを見た小早川秀秋らの軍は大手門に雪崩れ込み、田中吉政らの部隊により搦め手側も占拠されてしまいます。これにより佐和山城は落城。果たして石田正澄ら石田一族は自害してしまいます。

この東軍の動きに対し清幽は激怒します。清幽は脇坂安治隊の旗奉行・村越忠兵衛をすかさず捕らえ人質とし、石田三成の三男・佐吉らと11人の石田家臣を引き連れ敵中を押し通ります。清幽は彼らを従え徳川家康の本陣に乗り込むと家康に東軍の行為を激しく詰問します。

石田三成と関係の深かった木食応其

さすがの家康も面喰ったのか、この東軍の行為を不義であったと認め、清幽の言を受け入れて佐吉と残った石田家臣11人の助命を聞き入れます。この戦いの後、清幽は佐吉を高野山まで無事に送り届け、佐吉は木食応其のもとで出家し、命の恩人である清幽の名「清幽」の号を名乗ったと言います。また、残った11人の石田家臣たちも清幽の斡旋により無事、士官先を見つけることができました。

その後

清幽の墓所があるという龍雲院 ※グルコミ様より

戦後、家康は居城である駿府城に清幽を呼び、以後、家康の九男である徳川義直に仕えるよう命じます。まだ幼少である義直には忠義に篤い実直な清幽がうってつけだと考えたのでしょう。

のちに、家康が義直の居城である尾張国清洲城に立ち寄った時、譜代の臣である平岩親吉にこう言いました。「清幽は尾張出身であるから二心はない、軍事がある時は一方の事を任せて疑うな」

これを聞いた清幽は涙を流したと言います。その後、清幽は死ぬまで徳川義直に仕え、90歳近い年齢でこの世を去ったと言います。

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