大久保彦左衛門忠教【旗本の矜持に生きた三河武士】

大久保彦左衛門忠教【旗本の矜持に生きた三河武士】戦国時代

旗本肝煎として徳川幕府の初期を支えた三河武士、大久保彦左衛門忠教についてお伝えします。三河以来の譜代である大久保一族の有力者であり、家康、秀忠、家光の三代の将軍に旗本として仕えました。戦場においては勇猛果敢な戦いぶりを見せ、江戸幕府成立後、天下が落ち着いた後も旗本としての矜持(プライド)を示しますが、幕府内の権力闘争に翻弄され、さらには旗本と外様大名とのメンツの張り合いに巻き込まれていきました。晩年には『三河物語』を書き、武士としての生き方を世に問うています。

出自について

大久保彦左衛門忠教は1560年(永禄3年)、大久保忠員(ただかず)の八男として三河国上和田(現在の愛知県岡崎市)にて生まれました。永禄3年と言えば、織田信長が桶狭間で今川義元を撃ち破り、徳川家康が岡崎城を取り戻した年です。

大久保忠員は徳川家康の祖父、松平清康、父、松平広忠、そして家康と三代に渡って仕えた武将です。1563年(永禄6年)の三河一向一揆に際しては当然ながら家康側近として上和田城を守り抜きました。

大久保忠世

また忠員の長男の大久保忠世(ただよ)も三河一向一揆、三方ヶ原の戦い、さらに長篠の戦いにおいて優れた武功を挙げています。

忠教の初陣は1576年(天正4年)でした。兄である忠世に従って、武田軍が拠点のひとつとしていた遠江国犬居城(現在の静岡県浜松市天竜区)を攻めたときです。1581年(天正9年)には武田勝頼の有していた遠江国高天神城(現在の静岡県掛川市)にて元今川家重臣であった岡部元信と斬り合っています。

現在の上田城 ※wikipediaより

1581年(天正13年)の上田城の戦い(現在の長野県上田市)では真田軍の優れた戦術の前に徳川方は敗走を強いられました。忠教も忠世と共に撤退しています。

その後1590年(天正18年)、忠世が相模国小田原城主4万5千石取りとなると、忠教は3千石を与えられています。1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いに際しては徳川秀忠軍に従い、本田正信らとともに上田にて再び真田軍と対峙しました。

権力闘争の中で

関ヶ原の戦いの翌年(1601、慶長6年)、忠員の次男であった大久保忠佐(ただすけ)は家康より沼津2万石を封じられ大名となっていましたが、1613年(慶長18年)に忠佐が死去し、無嗣改易、跡継ぎ不在のため大名家をとり潰す、ということになってしまいます。

実はこのとき、忠佐の弟である忠教を忠佐の養子として家督を継がせるという案があったのですが、忠教は固辞しました。2万石の大名になるチャンスを自ら放棄するなんて、このあたりから忠教の剛情なところがかいまみえてきます。

関東の要である小田原城 ※wikipediaより

さらに追い討ちをかけるようなことが起こります。忠世の跡を継いで小田原藩主となっていた忠世の長男である大久保忠隣(ただちか)は1610年(慶長15年)に老中となり徳川二代将軍秀忠を支えていました。

しかし、1614年(慶長19年)に突然、改易処分とされてしまいました。これは同じく老中となっていた家康側近の本多正信・正純親子と大久保家の権力闘争の結果だったのです。

幕府と派閥争い

徳川秀忠

徳川家康は1603年(慶長8年)に征夷大将軍に任ぜられ幕府を開きましたが、そのわずか2年後には将軍職を秀忠に譲り、自らは大御所となりました。これは秀忠に幕府を任せたようで実は権力は自分が保持し幕府の長期的な安定を図ろうとするものでした。

そのためには、長きに渡って武功をたて徳川幕府成立に尽力してくれた家臣、大久保一族の大久保忠隣よりも、紆余曲折がありながらも現在は有能な吏臣として幕政を支える本多親子を取り立てた方が良いという冷徹な判断があったのです。

本多親子もこの判断に賛同し、大久保忠隣を攻めたのです。もちろん刀や槍は使いません。幕府の許可なく大名同士で婚姻をなしたということ、与力であった大久保長安に大規模な不正蓄財があったということ、などを理由に忠隣の力をそぎ、最後は謀反を画策しているという讒言により家康に忠隣改易を決断させたのでした。

家康の懐刀である本多正信

長年、忠隣の支援を得ていた秀忠も大御所の決定に口を挟むことはできません。

そしてこの連座を受けたのが忠教だったのです。大久保宗家の罪は忠教にも及び、旗本となっていた忠教も改易処分を受けてしまいました。

1614年(慶長19年)、忠教は55歳となっていました。但し、幸なことに忠教は間もなく旗本に復帰となり、三河国額田に1000石の知行を与えられています。

大坂の陣

そして、その年1614年(慶長19年)と翌年に渡る大坂の陣に忠教は槍奉行として出陣します。家康の本陣の前に槍を立て護衛の責任を負う重要な役です。このとき夏の陣では逸話が残っています。

真田幸村

5月7日の合戦にて豊臣方は真田幸村軍を中心に家康本陣に突撃を企て、家康は本陣から退避する事態となりました。護衛もほとんど散り散りとなってしまい、家康の軍旗、馬印を保持する旗奉行も家康を見失い自らも逃げ出してしまったのです。一時的にせよ敗走と見なされるようなことになったのです。

戦後、家康はこのことを重視し責任者の処分を考えました。しかし、そのときのことを問われた忠教は「軍旗は立っていた」、と証言したのです。誰もがそれはおかしいと言いました。家康も信用しません。

しかし忠教は頑なに同じ主張をします。それは徳川譜代大久保一族としての矜持(プライド)でした。一時的にせよ軍旗がなくなるなどということは家康にあってはならぬことなのです。そんなことがあればこれまでの家康の業績が全て否定されることになってしまう。

最終的に彦左衛門は意地を貫いた

そしてそれは三河以来徳川家九代に仕えてきた大久保家も否定されることになる。だから誰がなんと言おうと軍旗は然るべき場所ではためいていたとしなければならないのでした。

しかし、いくら旗本の矜持を示しても、家康に逆らってしまったのですから忠教も切腹を覚悟しました。家康の供回りの旗本小栗又一に説得され、翌日、忠教は白装束の上に羽織袴という出で立ちで家康の前に出ました。この行動に家康はもちろん切腹を命ずることもなく忠教を旗本のままとしました。

三河物語

彦左衛門の菩提寺である長福寺 ※wikipediaより

こんなこともあってか、彦左衛門は最晩年の5年ほどを知行地の常陸国鹿島(現在の茨城県鹿島市)にて『三河物語』の執筆に専念します。

そのなかでは、長年の忠臣よりも平和な時代に処世にたけたものが出世する現実を嘆いているのでした。忠隣が改易され、本多正信らが重用されるという現実です。

もっとも正信はとうに亡くなり、その子の正純も思いもよらない理由で改易されてしまいましたから、多少は彦左衛門の溜飲も下がってはいたことでしょう。

『三河物語』をもう少し引用しますと次のような面白い記述があります。

「今、江戸城で出世する武士」

主君に弓を引き裏切りをしたもの

卑怯な振る舞いをして人に嘲笑されたもの

人付き合いがよく城中や宴席でもうまく立ち回るもの

ソロバン勘定がうまく事務処理の巧みなもの

前歴がよくわからないもの

さらに、

「今、江戸城で出世しない武士」

主人に謀反心など絶対に持たず忠義一途に働いてきたもの

武勇の優れているもの

礼儀作法をわきまえない不調法もの

ソロバン勘定が不得手で、しかも老年になったもの

徳川家にずっと仕えてきたもの

普通それは反対でしょう?ということなのですね。

この『三河物語』は江戸城内で秘密裏に写本され回し読みされたようです。そのときの武士たちの本音が書かれており共感を呼んだのです。寛永年間に書かれたものですが、令和の時代にも通じるものがありますね。

彦左衛門は1639年(寛永16年)、80歳で亡くなりました。家光からの5000石の加増を、「死ぬ間際の自分には不要である」として断っています。最後まで三河武士の矜持を貫いた人生でした。

おわりに

講談でのタライに乗って登城する彦左衛門

典型的な三河武士のスタイルを貫くも、悲しいかな太平の世では不要の存在となってしまった大久保彦左衛門忠教。まさに”狡兎死して良狗烹られる”ことを身をもって知らしめた存在であります。

一方で、堅苦しい太平の世にウンザリしていた一部の武士、町民たちからはその気骨を気に入られ講談や講釈の中では「天下の御意見番」として活躍しており、特に一心太助と彦左衛門の談話は後の”江戸っ子気質”に大きな影響を与えたと言います。

その後、その江戸っ子たちが日本を動かしていくことを考えるとなかなか感慨深いものです。

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