松浦隆信 【南蛮交易によって隆盛を築いた海賊武将】

松浦隆信 【南蛮交易によって隆盛を築いた海賊武将】戦国時代

松浦 隆信(まつら たかのぶ 1529年-1599年)は、肥前国の戦国大名。平戸松浦氏25代当主。拠点である平戸にて明国、ポルトガル等と貿易を盛んに行い、弱小勢力に過ぎなかった松浦家を戦国大名へと躍進させた。

経済政策に重きを置いた戦国武将と聞くと、ほとんどの方は織田信長あたりを思い浮かべると思いますが、今回紹介する松浦隆信は弱小勢力でしかなかった松浦家を南蛮貿易により躍進させ、巧みに九州の戦乱を掻い潜り江戸時代における平戸藩の礎を築いた人物であります。そんな九州平戸の戦国武将について紹介していこうと思います。

南蛮交易と平戸の歴史

南蛮貿易屏風図

この「松浦隆信」を語る上で、南蛮交易と平戸(長崎県)は切り離せない関係ですので、まずはそれらについて簡単に解説していきます。1550年に松浦隆信主導により、ポルトガルの貿易船が初めて平戸に入港し、平戸での南蛮交易がスタートしました。因みにこの平戸での南蛮交易は、徳川幕府第3代将軍家光の時代に「南蛮交易は出島(長崎県)に限定する。」とのお触れが出て最終的に終焉を迎えることとなります。

家督相続

松浦家家紋

隆信は松浦氏の分家の一つである平戸松浦氏の24代当主・松浦興信の子として生を受けました。幼名は源三郎。源三郎が生まれた当初、平戸の周辺の状況は決して穏やかではなく、中国及び九州北部に覇を唱える大内氏や大友氏といった大大名の動向に左右される状態でした。そんなこともあり興信は大内氏との結びつきの強化を図ります。しかし、源三郎が13歳の時に興信は急死してしまいます。源三郎は元服前だったこともあり、すぐに家督を相続することはできず、渦中のいざこざなどもありましたが、籠手田安昌や波多盛といった家臣に支えられながら天文12年(1543年)になってようやく家督を相続します。このとき、先代の興信の生前の働きかけが功を奏したのか、当時の大内氏当主・大内義隆から「隆」の一字を譲り受けます。こうして今回の主人公、「松浦隆信」が誕生します。

南蛮との出逢い

大友宗麟

平戸には当時、明の商人や海賊など多く住んでおり、これらの方の手引きによりポルトガル船が平戸に初めて入港することになります。これが隆信と南蛮との初めての出会いでした。この南蛮との出会いを前向きに捉えた隆信は、主君筋にあたる大友義鎮(後の宗麟)に訴えて交易開始の許可を見事勝ち取ります。こうして平戸での南蛮交易が歴史上に姿を表すことになります。

ポルトガルとの軋轢

フランシスコ・ザビエル

こうして始まった南蛮交易ですが、常に順風満帆であったわけではありません。天文19年(1550年)、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島で布教を断られたために平戸にやってきました。隆信が平戸での布教活動を許可したこともあって、1561年までポルトガル船が毎年来航し、平戸は南蛮交易の中心地として繁栄します。隆信はこの機会を活用して鉄砲や大砲などの武器を率先して購入します。南蛮交易と隆信は相互に利し合える関係かと思われました。しかし、南蛮交易の背景にはキリスト教布教という宣教師たちの大きな目的があります。もともと熱心な曹洞宗宗徒であった隆信はこれを危惧し、永禄元年(1558年)宣教師に平戸からの退去を命じ、これにより一旦は平戸での南蛮交易は途切れることになります。しかし、南蛮交易がもたらす利益を再認識したのか、なんと永禄7年(1564年)には隆信がポルトガル船の平戸への再入港を催促したりもしているのです。しかし、結果としてポルトガル商人と宣教師たちはキリシタン大名である大村純忠の領地へと去ってしまい、平戸でのポルトガルとの貿易は終わりを迎えてしまいます。

戦国大名への躍進

竜造寺隆信

しかし、南蛮交易によって巨万の富を築き上げた隆信は、領内で鉄砲の製造を命じ、鉄砲足軽隊を整備するなど軍備拡張に乗り出します。これを背景に北松浦半島の重要拠点を制圧し、戦国大名としてその地位を固めることに成功します。その後も有馬氏や竜造寺氏らと合戦を繰り返しながら勢力を拡大し、永禄6年(1563年)には長年に渡り対立していた相神浦松浦家を従属させます。元亀元年(1570年)今山の戦いで竜造寺隆信が大友宗麟を打ち破ると松浦家の前に龍造寺家が立ち塞がります。龍造寺家は一時は松浦氏を席巻する勢いでしたが、天正12年(1584年)に龍造寺隆信が島津氏の支援を受けた有馬氏に敗れたため(沖田畷の戦い)、松浦氏はなんとか独立を保つことができました。

お家の存続とその後の松浦家

平戸藩初代藩主・松浦鎮信

天正15年(1587年)における豊臣秀吉の九州平定に際しては、周りの大名の多くが島津側に参陣する中、隆信は時勢を適切に判断して豊臣側に参陣しました。その結果、豊臣秀吉の治世においても所領を安堵され、大名の松浦氏は存続することができました。また、これまでの南蛮交易によって、隆信は中国の文物、名器も有していました。これが縁となり秀吉や千利休ら茶人たちと交流を結びます。また、秀吉の文禄・慶長の役の際には、隆信は出陣せず、息子の松浦鎮信が代わりに出陣しましたが、文禄2年(1594年)に壱岐や五島列島と朝鮮間の兵糧米の輸送を監督するという重要な任務を秀吉に依頼され、これを見事に果たし、賞賛を受けます。そんな隆信ですが、慶長2年(1597年)には道号「印山」を称し、慶長4年(1599年)に72年の波乱の生涯を閉じました。

さいごに

松浦隆信像

いかがだったでしょうか。南蛮交易を取り入れることで、結果的には一代で、当初は地方の豪族に過ぎなかった松浦氏を戦国戦国大名へと躍進させて、しかも存続の道を切り抜けさせた松浦隆信。彼の先見の明には賞賛せざるをを得ません。隆信死後も嫡子の鎮信は関ヶ原の戦いでは東軍に属し、松浦郡6万3200石の大名として存続し平戸藩となります。また、平戸にはオランダ、イギリスといった新興国が貿易の拠点と定めたため、鎖国体制が開かれるまで平戸は再びかつての繁栄を取り戻すこととなるのでした。

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