天正大地震 ~徳川家康の運命を決めた大地震~

天正大地震 ~徳川家康の運命を決めた大地震~戦国時代

1584年(天正12年)織田信長の天下統一の事業を受け継いだ羽柴秀吉(豊臣秀吉)は小牧長久手の地にて徳川家康と激突するも、戦いは膠着状態に陥り、両者による和睦という形でこの戦いは幕を閉じます。その後、秀吉は着々と勢力を拡大し、家康討伐のため大軍勢の出撃を整えさせます。対する家康は内外ともに問題を抱えている状態で、正に絶体絶命な状況でした。そんな状況の中、両陣営を未曾有の大地震が襲い、両者の運命を大きく左右することとなります。果たして、日本の歴史を大きく変えたとも言える”天正大地震”とは一体どんなものだったのでしょうか?

当時の情勢

1584年勢力図(※戦国倶楽部 つわものどもの館様より)

1584年(天正12年)11月、羽柴秀吉は小牧長久手にて敵対していた織田信雄・徳川家康らと和睦すると、各地の反秀吉勢力の各個撃破に転じます。

1585年(天正13年)3月、正二位内大臣に叙任された秀吉はまず、本拠地である大坂城を悩ます、紀伊国の根来寺・雑賀衆の討伐を開始します。鉄砲で有名な雑賀衆は苛烈に秀吉軍に対抗しますが、10万を超える秀吉軍を前に降伏。

その年の5月、四国を制覇した土佐の長宗我部元親を討伐すべく出陣し、これを平定。さらに7月に関白となった秀吉は、8月に越中にて抵抗を続ける佐々成政を攻めて、これを降伏させます。

一方、徳川家康は小牧長久手の講和の際に、次男である於義丸(後の結城秀康)を秀吉の養子として差し出しており、秀吉とは一応の平和関係を築いていました。

領地の荒廃により家康はさらに追いつめられる(※画像はイメージ)

しかし、この頃の徳川領内では「50年来の大水」と言うほどの大規模な大雨が関東地方から東海地方一円にかけて相次い発生しており、徳川氏の領国は荒廃していました。また、小牧長久手の軍役にて民百姓らは疲弊しており、領国内の立て直しを迫られていたのです。

さらに、信濃国上田を治める真田昌幸や越後の上杉景勝らは秀吉派の勢力であり、油断のならぬ状況となっていました。

追い詰められる家康

1585年(天正13年)8月、秀吉は佐々成政の討伐に赴く際に、家康にさらに人質を差し出すよう要求しますが、家康はこれを拒みます。

しかし、徳川家中は今後の秀吉への対応を巡って大きく揺れ動いていました。徳川四天王を代表する酒井忠次や本多忠勝ら武闘派は秀吉に対して徹底抗戦を訴えますが、古くから家康の家老を務める石川数正を筆頭とする家臣たちは秀吉との和平を訴えます。

石川数正の出奔については今も諸説ある

結果として、徳川家にて大きな役割を果たしていた石川数正は徳川家を見限り、11月に秀吉のもとへ突如出奔すること事態となってしまいます。

徳川家の軍事機密を多く知る数正の出奔は家康にとって大きな痛手であり、三河以来の軍制をかつての武田家が活用していた軍制へと改めなければならないほどでした。

また、石川数正が豊臣家に出奔したのを好機を見た豊臣秀吉は、美濃国大垣城に15万の兵士が滞在できるように兵糧や軍備を集結させます。さらに秀吉は年が明け次第、家康を討伐することを各地へ公言します。

現在の大垣城天守閣(※wikipediaより)

15万の大軍を動員する秀吉に対して、家康が動員できる兵力は約4万ほど。(※ちなみに当時の両者の石高は豊臣秀吉が約400万石、徳川家康が約140万石ほど)兵力だけでは圧倒的に不利な状態です。

さすがの家康も、もはやこれまでか…と思われたとき、まさかの事態が起こります。

天正大地震

両者の激突がいつ起こってもおかしくない、ある日の夜のことです…。

突如として大地を揺るがす大きな轟音が各地に響き渡ります。

旧暦1585年11月28日(※新暦1586年1月18日)日本列島の中心部にてマグニチュード8クラス、最大震度7と言われるほどの大地震が発生。後に”天正大地震”といわれる大地震が日本列島を襲ったのです。

天正大地震の震度分布図(※wikipediaより)

この大地震は近畿から東海、北陸にかけての広い範囲で発生し、各地に甚大な被害をもたらします。特に飛騨においては、帰雲城城主の内ケ島氏理とその一族郎党は帰雲山の崩壊に巻き込まれ、城もろとも一夜にして滅亡するほどでした。

また、越中においては木舟城を治めていた前田利家の弟である前田秀嗣夫妻が死亡し、”内助の功”で有名な山内一豊の幼い娘が長浜城にて死亡するなど、名のある武将たちの一族の多くの命が失われたようです。

さらに、若狭湾ではこの地震のあと大津波が発生しており、宣教師ルイス・フロイスは「日本史」で以下のように記述しています。

ちょうど船が両側に揺れるように震動し、四日四晩休みなく継続した。その後40日間一日とて震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛もよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。

若狭の国には、海に沿ってやはりナガハマ(※高浜のこと)と称する別の大きい町があった。揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が遠くから恐るべきうなりを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。

(高)潮が引き返すときには、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑み込まれてしまった。

※引用元:wikipediaより

秀吉の融和策と家康の臣従

この地震により消滅した飛騨帰雲城跡地(※wikipediaより)

一方、家康討伐を控えた秀吉は近江坂本城にて滞在していましたが、この凄まじい地震に驚き、一目散に大坂城へと逃げる有様でした。

その後、なんとか大坂に逃げ帰った秀吉でしたが、前線基地として大量の物資を保管していた大垣城が地震によって発生した火災により全て消失したことを知り驚愕します。また、その他の領地内でも大きな被害が発生していることを聞き、もはや家康との決戦どころではないことを悟ります。

対して、家康の領地である三河以東は震度4程度であったため、被害は最小限で済みました。

武力での家康打倒は現時点では不可能であると感じた秀吉は外交による融和策へと方針を切り替えます。そのため、1586年5月に自分の妹である朝日姫を家康の正室へと嫁がせます。さらに、9月には自分の大切な母親である大政所を人質として家康のもとへ差し出し、家康に上洛を促します。

秀吉のこの思いがけない行動にさすがの家康も折れざるを得なくなり、1586年(天正14年)10月、家康は浜松を出立し、大坂城にて秀吉に謁見。諸大名が見守る中で豊臣氏に臣従することを表明します。

その後

徳川家康を臣従させることに成功した豊臣秀吉はその後、九州の島津氏、関東の北条氏を打倒し、遂に1590年(天正18年)に天下統一を成し遂げます。

しかし、結果的には秀吉は家康を軍事力にて完全に屈服させることには失敗しており、不完全な主従関係を維持したまま豊臣政権を確立させ、秀吉死後に家康の台頭を許してしまうこととなってしまいます。

もし、この地震がなければ、両者のその後は全く異なったものになっていたのかと思うと、合戦や事件以上に自然の力が歴史に大きな影響を与えることを思い知らされます。

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