徳川四天王の活躍と実績をまとめてみた

徳川四天王の活躍と実績をまとめてみた戦国時代

2023年の大河ドラマは松本潤さんが主演を務められる「どうする家康」なのですが、徳川家康を生涯支え続けた四人の主な家臣、いわゆる「徳川四天王」についての活躍をまとめてみました。メジャーな戦国武将なので、もう知ってるよという方も多いと思いますが、本編の放送と合わせて見てもらえればよいかなと思います。

徳川四天王について

徳川家の家紋である三つ葉葵

酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の四人が俗に言われる徳川四天王なのですが、「徳川四天王」の名称がいつから使われたのかはよく分かってはいないそうです。

もともとは本多、榊原、井伊の三名「徳川三傑」だったものが後に酒井忠次を加えて四天王になったとも言われており、少なくとも当時から名乗っていたものではないようです。

その後、明治時代中期には一部の外国人も知るほど浸透していたらしいので「徳川四天王」の名が定着したのは、やはり後世の時代だったのではないかと思われます。

酒井忠次 ~若き家康を支えた四天王筆頭~

酒井忠次(※wikipediaより)

まず最初に徳川四天王・十六神将筆頭である酒井忠次についての紹介となります。

1527年(大永7年)徳川氏の前身である松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として誕生。元服後は徳川家康の父・松平広忠に仕え、酒井小五郎、後に左衛門尉と称します。生誕年から分かる通り、他の四天王より一回り以上年長です。(※四天王最年少の井伊直政とは30歳以上違う)

1549年(天文18年)竹千代(※徳川家康の幼名)が織田家より解放され、今川家に人質として駿府に赴く際には忠次も家臣として付き従います。その後は織田家との国境沿いである福谷城に駐屯し、1556年には織田家重臣である柴田勝家の軍を撃退する活躍を見せてます。

三河一向一揆 大樹寺御難戦之図(※wikipediaより)

1560年(永禄3年)5月に今川義元が桶狭間で戦死すると、忠次は松平元康(徳川家康)と共に岡崎城に入城。独立を果たした元康から家老に任命されます。1563年(永禄6年)に徳川家康3大危機の一つと言われる”三河一向一揆”が勃発しますが、同族の酒井氏が一揆側に付く状況の中でも忠次は家康に忠節を貫いています。

1564年には今川領吉田城攻めで先鋒を務め、この時の戦功により忠次は吉田城の城主に任命され、東三河の旗頭として三河東部の諸松平家・国人を統制する役割を与えられます。

三方ヶ原の戦いにて太鼓を打ち鳴らす酒井忠次(※wikipediaより)

その後も”姉川の戦い”や”三方ヶ原の戦い”なども奮戦しており、1575年(天正3年)の”長篠の戦い”では武田軍への奇襲作戦があまりにも理にかなっていたため、それを聞いた織田信長が武田軍に作戦がバレるの恐れてわざと却下し、後でこっそり忠次を褒めちぎったなんて逸話があるほどです。

以後も徳川家康の主な戦いには全て参加しています。1585年(天正13年)に同じく重臣であった石川数正が出奔してからは、家康第一の重臣となり、翌年には家中内で最高位の従四位下・左衛門督に叙位任官されています。

徳川家康の嫡男である松平信康

また忠次は合戦以外で外交も担当しており、1569年(永禄12年)今川領に侵攻してきた武田信玄の軍と領国の割譲協定に関しての交渉にも当たっています。他にも忠次の有名な外交の場として1579年(天正7年)に徳川家康の嫡子である松平信康が織田信長に謀反の嫌疑を問われた際に弁明の使者として安土城に赴いたものがあり、良くも悪くも信長に”目をかけられていた”ように見えますね。

1588年(天正16年)には加齢と持病の眼病が悪化したため、息子である酒井忠次に家督を譲り隠居。豊臣秀吉によって天下統一が成されると秀吉から京都に屋敷と1000石の領地を与えられ京都に隠棲し、1596年(慶長元年)10月に70歳でこの世を去ります。

武田軍の首を落とすために切ったとも?

残念ながら家康の天下を決めた”関ヶ原の戦い”には参加していませんが、若き日の家康にはいなければならない存在であったことがわかります。ちなみにお正月の門松の竹先を斜めに切る習慣は酒井忠次が起源ともされており、他にも”海老すくい”という踊りが得意で酒宴を盛り上げたとかいう逸話があります。

本多忠勝 ~家康に過ぎたるもの 天下無双の大将~

本多忠勝

”家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八”とまで謳われた天下無双の大将、本多平八郎忠勝です。忠勝は1548年(天文17年)に本多忠高の長男として誕生。通称は平八郎。幼名は鍋之助と言い、2歳の時に父である本多忠高が戦死したため、叔父である本多忠真の下で育てられます。

1560年の”桶狭間の戦い”の前哨戦である大高城の兵糧移送にて13歳で初陣を飾り、そのまま元服します。戦い後、松平元康(徳川家康)が岡崎城にて独立を果たすとこれに従い、三河国内の今川勢駆逐のため各地を転戦し、このころ初首を挙げたと言います。

1563年に”三河一向一揆”が勃発すると忠勝は宗派であった一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して家康側に残り戦いに参加しています。(※同じく本多一族で後に江戸幕府重臣となる本多正信は一揆側として参戦。)

真柄直隆に一騎打ちを挑む本多忠勝(※刀剣ワールド様より)

1566年(永禄9年)には若干19歳にして家康より与力54騎を付属され、家康直属の旗本部隊の将となり、1570年の浅井・朝倉戦である”姉川の戦い”では家康本陣に迫る朝倉軍を退けるべく忠勝は単騎で朝倉軍に突入、朝倉軍の猛将である真柄直隆に対して一騎打ちを敢行しています。

1572年(元亀3年)武田信玄が西上作戦を実行し、遠江へ進軍を開始すると徳川家康は本多忠勝に偵察を命じるも、一言坂にて武田軍とまさかの遭遇。偵察隊を逃すため殿軍を務めた忠勝は、あわや戦死となりますが、武田家近習の小杉左近の情けにより危機を脱出します。

三方ヶ原の戦い(※wikipediaより)左下が本多忠勝

続く”三方ヶ原の戦い”でも徳川軍は武田軍の万全の布陣の前に大敗北を喫し、家康も命からがら浜松城まで逃げ延びる事態となりますが、忠勝はこの戦いでは奮戦しており、武田四天王の一人である山形昌景の軍を追い詰めたとも言います。

武田信玄がなくなると徳川軍は反抗に転じて、1573年に忠勝は榊原康政を共に長篠城を攻め落とします。二年後の”長篠の戦い”や”第二次高天神城攻め”でも活躍し、武田の脅威も去って、織田信長の天下統一も間近というところで1582年(天正10年)に信長が横死すると、堺で物見見物していた徳川家康と忠勝ら家臣数十人は”伊賀越え”を行いなんとか三河まで脱出。この時に忠勝は途方にくれる家康を𠮟咤激励したと言います。(※ちなみに四天王の榊原康政と井伊直政ら二人も同行している)

本能寺の変にて空白地となった武田領を手に入れ大大名となった徳川家康ですが、今度は羽柴秀吉(豊臣秀吉)が立ち塞がります。両雄は並び立たず、1584年(天正12年)に小牧長久手の地にて激突。この時、忠勝は丹波国の国衆らに上方の情報提供を行うよう調略を行っています。

羽柴軍に立ち塞がる本多忠勝(※刀剣ワールド浮世絵様より)

10万を超える大軍を擁する秀吉軍でしたが、地の利を生かした徳川軍の攻撃に苦戦を強いられます。秀吉は家康が小牧山から離れた隙を突いて3万の軍勢をもって襲撃を試みますが、小牧山の留守を任されていた本多忠勝は僅か500の兵を率いて秀吉軍の行軍を妨害。余裕のある統率で秀吉を挑発するも、逆に秀吉から”東国一の勇士”と賞賛を受けるほどでした。

豊臣秀吉による天下統一後は、家康の関東移封に伴い上総国大多喜に10万石を与えられます。

関ヶ原での本多忠勝陣後(※wikipediaより)

1600年(慶長5年)”関ヶ原の戦い”が起こると軍監(軍目付)として出陣し、僅か500の手勢ながらも戦場を縦横無尽に駆けめぐり90以上の首を取るという勇猛さを見せつけます。この功績により伊勢国桑名に新しく10万石を授かると街道整備と人民掌握などの内政に力を入れます。

しかし、関ヶ原の戦い以降は次第に病気がちになり、1609年(慶長4年)に隠居するも、翌年10月に桑名にてこの世を去ります。享年63歳。

武勇伝

戦国最強とも呼ばれる本多忠勝ですが、武勇伝や逸話もたくさんあるので少し抜粋しました。

・愛槍「蜻蛉切」は天下三名槍の一つで、槍先に止まったトンボが真っ二つになったためこの名が付いたほど。ちなみに蜻蛉切のレプリカが岡崎城の展示コーナーにて見ることが可能。

・生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったが、亡くなる数日前に古刀で左手を怪我し、己の余命が近いことを悟ったという。

・娘の”小松姫”は徳川家康を苦しめた真田昌幸の長男、真田信之の嫁であり、関ヶ原の戦い後、真田昌幸と信繁(幸村)が死罪にならなかったのは忠勝が必死に嘆願したためであると言う。

・その数々の武勇伝から三国志の猛将「張飛」と並び称されている。

榊原康政 ~文武に優れた家康覇業の功臣~

榊原康政

忠勝と同じく若くして家康を支えた功臣、榊原康政です。

1548年(天文17年)榊原長政の次男として三河国上野郷にて誕生。通称は小平太と言います。幼い頃から勉学を好み、書を読んで、字も達筆だったといいます。13歳の時、松平元康(徳川家康)に見い出され小姓として仕えるようになります。

しかし、康政が小姓として仕えたころは、家康が今川家から独立したばかりの頃であり、まだまだ基盤も不安定な状況でした。そんな時に”三河一向一揆”が勃発。康政はこの戦いにて初陣を果たし、活躍したことから「康」の一字を家康から与えられて「康政」と名乗るようになります。

1564年(永禄7年)に酒井忠次が吉田城を攻めた際は、本田忠勝らと共にこれに従軍。1566年になると19歳にて元服し、本田忠勝と共に旗本先手役に抜擢され、与力50騎を付属されました。本多忠勝とは年齢も同じであったため仲が良かったと言います。また、1568年には今川領堀川城攻めでは先陣を務めて、1番に城中に攻め込み落城させたものの、不覚にも2か所の傷を負ってしまい、家康からねぎらいの言葉を受けてます。

康政が使用した黒糸威二枚胴具足

1570年の”姉川の戦い”では家康本陣に迫る朝倉軍を退けるため本多忠勝が単騎で敵陣に突入。忠勝を救うべく徳川軍は猛反撃を開始し、これを好機とみた榊原康政は軍を率いて朝倉軍の側面を攻撃し、”姉川の戦い”の勝利に貢献しました。

1572年の”三方ヶ原の戦い”においては、散りじりになった徳川兵を集めた後、夜に武田軍を襲撃し、一矢報いる形で浜松城に帰還しています。三年後の”長篠の戦い”にも参加し、本田忠勝と共に家康の陣に突撃をしてきた武田四天王の内藤昌豊を防いだとも言われますが、真偽は不明なとこです。
また、いつ頃かは定かではありませんが、康政は兄である清政を差し置いて、榊原家の家督を相続しています。理由として家康の嫡男であった松平信康が切腹したことで、清政が病気がちになったからとも言われています。

1582年(天正10年)に本能寺の変が起きると、家康と共に三河へと脱出。その後、家康が五ヶ国の大名となり、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対決することになると、達筆な康政は秀吉による織田家乗っ取りを批難する檄文を尾張国中に発表したため秀吉は激怒。榊原康政の首に10万石の懸賞金を懸けたとの逸話があります。

羽柴秀吉を追う榊原康政

そして1584年に”小牧長久手の戦い”が起こると徳川・羽柴両軍は対峙し、しばらく睨み合いが続きますが、秀吉方の池田恒興が三河方面へと進撃を開始。これを察知した徳川方は康政ら率いる軍勢に追撃を命じます。そして、康政らの軍勢は白山林で休息していた羽柴秀次の軍勢を捕捉すると、これを襲撃して秀次軍を壊滅させます。

最終的にこの戦いの数年後、家康は秀吉に臣従しますが、秀吉は徳川からの使者に康政を指名して、檄文のことを問い詰めるかと思いきや、逆に康政の剛胆さを賞賛しました。天下人秀吉の器量が伺え知れます。

1590年(天正18年)の小田原征伐に参加した後は、関東上野国館林城10万石を与えられます。また、本多正信と共に関東総奉行に任命され、家康の居城である江戸城の修築作業を監督しています。

1599年(慶長4年)豊臣秀吉が世を去り、再び天下が不穏になると豊臣政権五奉行筆頭の石田三成は家康の暗殺を画策します。この際、康政は家康の危機に伏見城まで駆け付けるほどでした。翌年1600年(慶長5年)に”関ヶ原の戦い”が起こると、徳川秀忠が率いる3万8千の軍監として康政は従軍。中山道を進み真田昌幸が守る上田城を目指します。

徳川秀忠

しかし、上田城を守る真田軍に手を焼いたことと、関ヶ原へ向かう道中が悪天候であったことから結果的に関ヶ原の戦いに遅れてしまいます。このことに徳川家康は激怒し、秀忠との対面を許さずとの態度を示しますが、榊原康政が擁護したことにより秀忠は許されたと言います。

戦後、徳川家康が江戸に幕府を開くと康政は幕府老中に任命されます。所領の加増がなかったため家康は康政を遠ざけた始めたのでは?との説もありますが、康政が「老臣権を争うは亡国の兆しなり」と言い、自ら離れていったとする説もあるので、こちらが真相ではないでしょうか?

榊原康政の墓(※wikipediaより)

1606年(慶長11年)5月に病が悪化し、居城の館林にて死去。関ヶ原の戦い後の対応で康政に恩ある徳川秀忠は、病床にある康政を見舞うため医師や家臣を遣わせましたが、その甲斐なくこの世を去ります。享年59歳。

井伊直政 ~赤備えを率いて家康の寵愛を受けた名将~

井伊直政

徳川四天王最年少であり、”井伊の赤鬼”と恐れられた井伊直政です。

1561年(永禄4年)今川氏の家臣である井伊直親の嫡男として遠江国井伊谷近くの祝田にて誕生。幼名は虎松といいます。

もともと井伊氏は先祖代々、遠江国井伊谷の国人領主であり、当時の井伊家の当主である井伊直盛(虎松の父である直親の従兄で養父。井伊直虎の父)は”海道一の弓取り”となった今川義元に臣従。1560年(永禄3年)の尾張侵攻では先陣を務めますが、義元は桶狭間にてまさかの戦死。さらに井伊直盛も家臣と共に討死にしてしまいます。

桶狭間の戦い(※wikipediaより)

井伊家の家督は虎松の父である井伊直親が継ぐこととなりますが、今川義元亡き後の遠江国は混乱状態であり、さらに三河の松平元康(徳川家康)が独立して勢いを増していたため井伊家は今川松平の板挟み状態となってしまいます。

日々勢力を拡大する松平家に注目した直親は密かに松平元康と通じ始めましたが、これを察知した親今川派である井伊家家老の小野道好は今川氏真にこれを密告。1562年(永禄5年)井伊直親は謀反の疑いにより襲撃を受け、死亡してしまいます。

混乱する井伊家でしたが、1565年(永禄8年)”おんな城主”として名高い井伊直虎が家督を継ぎ、井伊家存続のため奔走。1568年(永禄11年)には専横を極める小野道好に井伊谷城を奪われるも、徳川家康の協力を得て、これを奪還します。徳川家傘下に入った井伊家でしたが、続いて武田信玄が遠江国に侵攻したため、直虎と井伊家一行は家康の居城である浜松城まで落ち延びます。

1570年頃の井伊家周辺の勢力図(※大河ドラマ税理士様より)

浜松城に逃れて数年後の1575年(天正3年)15歳となった虎松は徳川家に出仕するようになり、その実力を家康に見い出され小姓として仕えるようになります。また、正式に井伊谷の領主として認められ、これを機に井伊万千代と名を改めます。

名を万千代と改めた翌年の1576年”芝原の戦い”で初陣を飾り、万千代は大いに活躍します。その後も武田攻めにて戦功を挙げ、1582年にて元服し、名を直政と名乗るようになりました。

しかし、その年の6月に”本能寺の変”が起こると、堺に徳川家康と共に滞在していた直政は三河へと脱出を決行。無事”伊賀越え”を成し遂げて帰国に成功します。このとき直政は率先して家康を守ったため、具足を褒美に貰い受けています。

さらに、空白地となった武田遺領である甲斐・信濃を巡り”天正壬午の乱”が勃発。北条家と苛烈な争いとなりますが、徳川家はこれに勝利し、井伊直政は北条との講和を担当。この後、直政はその器量を見込まれ、かつての武田遺臣を配下に付けられ旗本先手役の侍大将に抜粋。さらに武田の兵法を受け継ぐ者として、部隊を赤一色で統一します。これぞ世に名高い”井伊の赤備え”の誕生の時でした。

井伊家の軍勢(画像は関ヶ原の時)

1584年(天正12年)羽柴秀吉との”小牧長久手の戦い”が起きると、直政は赤備えを率いて出陣。長久手の戦いでは3000人の兵を率いて、池田恒興と森長可らが率いる軍勢と激突し、これらを撃破しています。また、この時の戦いぶりから”井伊の赤鬼”とも呼ばれるようになったと言います。

1586年(天正14年)10月。徳川家康は上洛し、豊臣秀吉に臣従すると、井伊直政の武勇・政治的手腕を秀吉は高く評価し、従五位下に叙位させます。さらに1588年(天正16年)の聚楽第行幸の際には、古参の徳川家臣を差し置いて、昇殿を許される”侍従”に任官されており、直政の凄さが分かります。

1590年(天正18年)秀吉の天下統一の総仕上げである”小田原征伐”では、直政は数ある武将の中で唯一夜襲をかけて小田原城内にまで攻めこみ、勇名を響き渡らせます。さらに奥州仕置の九戸政実の乱でも仕置軍の先鋒を任せられています。その後、北条氏が滅び、家康が江戸に入ると、直政は上野国箕輪に領地を与えられ、徳川氏家臣団の中で最高の12万石で封ぜられました。

現在の高崎城跡地乾櫓(※wikipediaより)

1598年(慶長3年)には箕輪から高崎城へと移転し、ここを居城としました。また、この年に豊臣秀吉が世を去ると、豊臣派の武将の懐柔に直政は取り掛かっており、秀吉の軍師で名高い黒田如水と長政親子を徳川方に引き込むことを成功させています。

そして1600年(慶長5年)”関ヶ原の戦い”の戦いが幕を開けると、直政は決戦の前に全国の諸大名を東軍につける調略を行い、ほとんどの大名を味方に取り付けます。また本戦では本田忠勝と共に軍監として従軍し、家康の4男である松平忠吉の先陣を支えます。

関ヶ原合戦屛風絵(※wikipediaより)

決戦終盤では”袋のネズミ”となった島津義弘軍が徳川本陣に迫りますが、これを退けて本田忠勝と共に猛追撃を仕掛けます。しかし、”鬼島津”の異名をとる義弘と甥の豊久の反撃も凄まじく、追撃を続けた直政は島津軍の銃撃を受けて、落馬してしまい重傷を負ってしまいます。

戦後、重傷を負いながらも西軍に付いた各大名との交渉を務め戦後処理に尽力します。これらの功績によって石田三成が治めた近江国佐和山18万石を与えられ、従四位下に叙任。家康は西国の要として直政に期待を掛けます。

現在の彦根城天守閣(※wikipediaより)

しかし、関ヶ原での傷は次第に悪化し、1602年(慶長7年)2月、彦根城を築城途中に佐和山城で直政は死去します。享年42。直政の功績は井伊家彦根藩として長きに渡り存続することとなります。

まとめ

徳川家康が天下を取ることができた理由の一つとして、やはり彼らのような忠義と武勇に優れた三河武士がいたことが彼らの実績から伺うことができましたね。それから四天王ということもあり、ここには書けなかった逸話や功績がまだまだたくさんあるので、ちょっとでも彼らに興味を持った方は是非しらべてみてくださいね。それではこの辺で!

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