戦国三大美少年 【乱世に生きた三人のイケメン武将たち】

戦国三大美少年 【乱世に生きた三人のイケメン武将たち】戦国時代

戦国三大美少年とは、安土桃山時代から江戸時代初期に存命した名古屋山三郎、不破万作、浅香庄次郎の三人を指す。三人のうち名古屋、浅香の二人は蒲生氏郷の家臣であり、不破は豊臣秀次の小姓として仕えた。

いつの時代にもイケメンと呼ばれ、世間でもてはやされる人たちはいますが、今回紹介する三人も「天下三美少年」、あるいは「戦国三大美少年」と謳われていました。この三人は武将としてはあまり功績といったものはないのですが、その見た目の良さからか、後世で歌舞伎の演目や書籍のネタ等で扱われていたりします。今回はそんな乱世のイケメン三人を紹介します。

名古屋山三郎

名古屋山三郎

・名古屋山三郎(なごや さんさぶろう 1572年?-1603年)
三人の中で一番記述が残っている人物です。尾張国名古屋の生まれで鎌倉時代の北条氏、名越流の子孫と言われています。幼少時は母親と一緒に京都の建仁寺で過ごした、または母親が織田家の縁戚であったことから織田信長の弟・織田信包に仕えていたとの説があります。しばらくして15歳になった山三郎は豊臣家の有力武将・蒲生氏郷に見いだされ小姓として仕えます。また、この時のエピソードとして山三郎を美少女と見間違えた氏郷が嫁にするために山三郎の身辺を調べたという話があります。その後、山三郎は氏郷の下で天正14年(1586年)の島津氏を降伏させた九州征伐、天正18年(1590年)の北条氏を降伏させた小田原征伐に参加します。さらに奥州で起こった名生城一揆や九戸政実の乱で山三郎は一番槍の功を上げ2000石を加増されます。この時の活躍は小歌にもなるほどで「鑓仕(槍士)鑓仕は多けれど、那古野山三は一の鑓」とはやされたと言います。

蒲生氏郷

文禄4年(1595年)に蒲生氏郷が死去すると山三郎は蒲生家を去り、京都にて浪人生活を送ります。大徳寺にて出家して宗円と名乗りますが、その後、還俗し母親が織田家の縁戚であったため織田九右衛門と名乗ります。宗円時代は大徳寺の僧侶たちや戦国の文化人として名高い細川幽斎(藤孝)からその美男子ぶりを賞賛されるほどでした。

森忠政銅像

還俗後、山三郎の妹であるお岩が、「鬼武蔵」として有名な森長可の弟・森忠政の側室であったため、その伝手で忠政に仕えることになります。茶の湯や和歌、踊りといった流行り事に精通していた山三郎を気に入った忠政は山三郎に5000石の所領を与え厚く取り立てます。また他の山三郎の妹二人が森家の重臣と婚姻関係を結んだため、山三郎は一気に森家中で大きな発言権を有するようになります。しかし、同じく森家の譜代重臣である井戸宇右衛門はこれを良く思わず以降、度々、山三郎と衝突するようになります。

現在の津山城櫓部

慶長5年(1600年)に行われた関ヶ原の戦いの戦いで徳川方に付いた森家は加増転封され、信濃国川中島から、美作国津山へと移封となりました。慶長8年(1603年)移封先の津山に新しい城を築こうとした森忠政でしたが、建築場所を巡り井戸宇右衛門と対立します。関ヶ原の際にも忠政と宇右衛門は軍事行動で諍いを起こしており、両者の信頼関係は最悪なものとなっていました。そのため、忠政は山三郎に密かに宇右衛門の暗殺を命じます。後日、建設現場にて山三郎は宇右衛門と口論の末、抜刀して切りかかりますが、宇右衛門もなかなかの豪傑であり逆に山三郎は返り討ちにあってしまいます。僅か30年程の短い生涯でした。

院庄東公園内のにらみ合いの松

山三郎を返り討ちにした右衛門でしたが、結局その場で他の家臣に刺殺されてしまい、両者はそれぞれ南北に離れた地に埋葬されましたが、墓標として植えられた松の木が睨み合っているようになっているため「にらみあいの松」と呼ばれるに至ったと言います。美男子としては少しあっけない最後の山三郎でしたが、京都在住時代はその遊芸に通じた伊達男ぶりと数々の浮名から「豊臣秀頼は淀殿と山三郎の隠し子」などといわれていたらしく、案外今で言う「チャラ男」だったのかも知れませんね(汗)また一説では”かぶき踊り”の祖と言われる出雲の阿国の夫と言われており、共に歌舞伎の祖とされています。なお、山三郎には継嗣の名古屋蔵人がおり、森家を去った後、加賀藩の前田利常に召し抱えられて子孫は加賀藩士となり、代々名越(なごや)姓を称したそうです。

不破万作

不破万作

・不破万作(ふわ ばんさく 1578年-1595年)
1578年に尾張国で生まれ、秀吉の甥の豊臣秀次の小姓を勤めました。武将というよりは小姓であったので、功績らしい功績が全く残っていないのですが、こうして名前が残っているは言うまでもなく彼が美少年として話題だったからです。

殺生関白・豊臣秀次

文禄4年(1595年)主君の秀次が謀反の疑いにより切腹となるとそれに応じて殉死します。享年17歳。豊臣秀次の関係者は殆んど死罪か流罪であったので小姓としての立場としてはやはり生き残るほうが難しかったと思います。その後、歌舞伎が一般大衆の中に浸透すると演目「鞘当」での主人公・不和伴左衛門のモデルになったと言われており、前述の名古屋山三郎と恋人を巡って争うといストーリーとなっています。

演目内の万作と山三郎

初代市川團十郎が不破伴左衛門役を演じ江戸で人気を博し、後に代々の市川團十郎が演じる事になりますが、美少年小姓というより團十郎の演技力により”敵方”のイメージが先行してしまったと言います。

浅香庄次郎

浅香庄次郎(あさか しょうじろう 生没年不明)
最後に紹介する浅香庄次郎についてですが、彼も不明な点が多く、誕生日と死没日を確認することができていません。生誕地は名古屋山三郎、不破万作と同じく尾張国と言われています。はじめは織田信長の次男・織田信雄の下、水野少次郎と名乗って小姓として仕えていましたが、本能寺の変後、織田信雄は豊臣秀吉の軍門に降ったため、亀山城の木村吉清の家臣となります。ちょうどこの時期に名古屋、不破、浅香の三人の美貌が天下に知れ渡り、世間から「国色無双」と称されるようになったと言います。

九戸城二の丸跡地

天正18年(1590年)主君である木村吉清は奥州仕置きにて活躍するも、過酷な年貢の取り立てと刀狩りによって葛西大崎一揆を誘発してしまい失脚。吉清は蒲生氏郷の客将となり身を寄せ、庄次郎ら家臣たちも氏郷の配下となります。翌年に九戸政実の反乱が起きると庄次郎は左翼の一陣を任せられ活躍します。このとき同じく氏郷配下の美少年・名古屋山三郎が一番槍の功績を上げており、以降、庄次郎と山三郎は親交を深めるようになります。

加賀藩二代藩主・前田利常

この戦いの後、庄次郎は須賀川城1万石を与えられ出世しますが、文禄4年(1595年)に蒲生家にてお家騒動が起こったため庄次郎は蒲生家を去り、石田三成に仕えます。しかし、1600年に関ヶ原の戦いにて石田三成が敗れると庄次郎は石田三成の居城・佐和山城から脱出し、浪人となります。しばらく浪人として生活を送る庄次郎でしたが、その後、加賀藩藩主・前田利常に請われ2000石にて前田家に仕えました。この時、かつての同僚であった名古屋山三郎の弟・山三郎隼人と出会い(継嗣の名古屋蔵人ともか?)、山三郎が死去したことを伝え聞くと「何と縁の深き事かな」と嘆いて涙を流したという逸話が残っています。以降の庄次郎の消息は残念ながら一切不明です。

さいごに

今回は戦国時代を生きた三大美少年について取り上げました。「人は顔が全て」という見方があるものの、この三人の生き様からみると、やはり乱世では見た目より実力の世界であると感じました。また名古屋山三郎の一族と浅香庄次郎の晩年は加賀藩で無事に一生を送れたのでしょうか?ちょっと気になります。それと、今回紹介した三人以外にも美貌に優れていたと言われる戦国武将はたくさんいますので、気になった方は是非調べてみてくださいね。

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