天下三肩衝 【天下人の証である幻の茶器】

天下三肩衝 【天下人の証である幻の茶器】戦国時代

戦国の世を収めた者にのみ、手にすることが出来た天下の大名物が今回紹介する「天下三肩衝」です。この天下三肩衝は「新田」「初花」「楢柴」の三つの肩衝茶入れの総称であり、この三つを揃えた人物は豊臣秀吉と徳川家康のみです。果たして、戦国の数寄者たちが欲した三つの肩衝茶入れとは一体どんなものだったのでしょうか?

肩衝茶入れとは?

肩衝茶入れ ※wikipediaより

”肩衝”とは、肩の部分が水平に角ばっている茶入のことです。名前の通り”肩が張っている”ようで、その姿が武士が着座している姿に見えることから武家に大変人気があった茶入れと言われます。

肩衝系の茶入にも、肩の付き方でさまざまな種類があり、撫肩、一文字、車軸、耳付、面取などがあり、天下三肩衝の他に戦国期~安土桃山期で有名なもので、勢高肩衝、樋口肩衝、松屋肩衝(松本肩衝)、円乗坊肩衝、投頭巾肩衝などがあります。一説では投頭巾肩衝、松屋肩衝、楢柴肩衝の三つが天下三肩衝とも言われています。

新田肩衝

新田肩衝 ※wikipediaより

最初に紹介するのが「新田」です。南宋~元の中国にて製作されたとされており、どういう経緯で渡ったのかわかりませんが、南北朝時代に活躍した新田義貞が所有していたため、その名が付いたと言われています。

その後、わび茶の祖である村田珠光が所有しますが、戦国時代に差し掛かると、細川家重臣の三好政長(宗三)の手に渡ります。(三好政長は著名な茶人であり、名刀左文字なども所有していた)

わび茶の祖と言われる村田珠光

さらに、細川家が三好家に取って代わられますが、1569年(永禄12年)に織田信長が入京を果たすとこれを手に入れます。しかし、本能寺の変によって信長が横死すると九州の大友宗麟が所有するのですが、何故、大友宗麟の手に渡ったのでしょうか?混乱のどさくさに紛れて誰かが持って行ったのでしょうか?

新田肩衝を手に入れた宗麟でしたが、島津家に押され戦況は苦しいものであったため、新田肩衝と”志賀の壺”を差し出して中央の覇者となっていた豊臣秀吉に援軍を請います。この要請にて秀吉は九州征伐を行い、「天下三肩衝」は秀吉の元に帰すことになります。

最終的に全て揃えた徳川家康

秀吉が没すると、そのまま大坂城に置かれますが、大坂夏の陣にて破損してしまいます。新たな天下人となった徳川家康がこれを見つけ出すと、塗師の藤重藤元・藤厳父子に修復を命じ、家康のもとに献上させます。大坂の陣の火災と修復で用いた漆により、より光沢のある黒褐色になったそうです。

その後は、徳川御三家の一つである水戸徳川家に伝わり、現在は東京の徳川ミュージアムに重用美術品として保管されています。

初花肩衝

初花肩衝 ※wikipediaより

中国唐代の傾国の美女である”楊貴妃”が油壷として使っていたのではないかと言われている初花肩衝です。銀閣寺で名高い室町幕府8代将軍の足利義政が所有し、「古今集」の詩から引用して名づけたと言われています。

この後、村田珠光の弟子である鳥居引拙が所持し、京都の商人の疋田宗観を経て、上洛を果たした織田信長に献上されました。信長は己の権威を主張したかったのか、上洛後はこの初花を何度か周りに披露しています。

初花の所有者だったと言われる楊貴妃

天正5年(1577年)、信長は嫡男の信忠が三位中将に昇進した祝いと家督相続の印として、この初花肩衝と他の名物を信忠に授けます。この時点で信長は新田も所有していたので、天下に一番近い大名であったのが分かります。

天正10年(1582年)の本能寺の変で信長、信忠が死亡すると前述の新田と共にこの初花も行方知らずになってしまいますが、松平親宅が入手して徳川家康に献上し、褒美を与えられています。

天下三肩衝を手中に治めた豊臣秀吉

信長死後、織田家家中の争いに発展し、羽柴秀吉は筆頭家老の柴田勝家を賤ヶ岳にて破ります。これを見た家康は戦勝祝いとして初花を秀吉に送り、この時点で敵意がないことを証明します。後に両者は小牧・長久手にて衝突しますが、この初花献上もあったのか家康は和睦に成功しています。

天正15年(1587年)大友宗麟より新田肩衝を譲り受けた秀吉は九州征伐を開始。また、残りの1つの肩衝である”楢柴”を九州筑前国(現・福岡県)の大名である秋月種実が所有していたため、これを攻略し、秀吉は遂に天下三肩衝を揃えます。

忠直が割ったのは”初花の茶壷”である

天下統一後、秀吉は五大老の一人である宇喜多秀家に初花を授けますが、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで宇喜多秀家は敗れ、徳川家康に没収されてしまいます。その後、慶長20年(1615年)大坂夏の陣にて家康が褒美として孫の松平忠直に授けたのですが、領地を欲していた忠直は怒りのあまり初花を叩き壊したとの説があります。しかし誤りであり、現在も新田肩衝と同じく徳川記念財団により保管されています。

楢柴肩衝

島井宗室

最後の3つ目”楢柴肩衝”です。「万葉集」の詩に因んで名付けられたと言います。足利義政が所有していましたが、これも村田珠光から所有者を転々として、戦国時代に博多の豪商・島井宗室の手に渡りました。

既に三肩衝の2つを所持していた織田信長から、博多の商業圏を保護する代わりに散々楢柴を渡すように要求される宗室でしたが、本能寺の変により話は有耶無耶になります。また、宗室は本能寺の変の際、自分も本能寺に宿泊していたので、危うく命と楢柴も失いかけています。

楢柴も手に入れようとした大友宗麟

その後、無事博多に戻った宗室でしたが、今度は新田を所持していた大友宗麟から大金を払うから譲ってほしいと懇願され断り続けることに。大友家が衰退すると次は島津家と結んだ秋月種実が博多に侵攻してきたため、武力を背景に宗室は脅され、止む無く楢柴肩衝を種実に渡す羽目になります。(一応、種実は宗室に代金として大豆百俵を渡している。これは現代の価格で数億円近い支払いという)

楢柴を手に入れた秋月種実でしたが、運の悪いことにちょうど豊臣秀吉による九州征伐が始まり、あろうことか種実は秀吉に徹底抗戦を臨みます。が、衆寡敵せず。20万近い豊臣軍の前になすすべもなく敗れた種実は秀吉に降伏し、助命の条件として楢柴を差し出すことに。秀吉としては意固地の島井宗室から楢柴を取り上げるよりも、秋月種実の手に渡った方が好都合だったように見えます。

江戸市中の大半を灰塵とした明暦の大火

九州征伐後、三つ全てを揃え天下を取った秀吉でしたが、慶長3年(1598年)臨終の際に豊臣五大老筆頭であった徳川家康に楢柴を授けています。最終的に江戸幕府を開き次の天下人となった家康が三つ全て所有することになりますが、江戸時代に発生した明暦の大火(1657年)で楢柴は被災してしまい行方不明となってしまいます。一度修復されたとの説もありますが残りの2つと違い今も見つかっていません。案外誰かが普通に使っていたりして…(汗)

おわりに

果たして楢柴はどこへ?

天下三肩衝について今回は紹介しました。3つの経緯を見ていると実力者以外が持つと災いを運んでくるようにも見えて何とも言えなくなりました。まぁ、それだけ多くの人から求められていた大名物だったんでしょうね。

それと楢柴肩衝だけ現在も行方知らずのままというのが気になります。そのうち日本で有名な鑑定番組に登場なんてこともあるかもしれません…(ないかw)

残りの新田、初花は現在も厳重に保管されていますので、もしこの記事を読んで気になった方は是非とも徳川財団で展示の際に観に行ってみてくださいね。

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