ジョシュア・ノートン ~偉大なるアメリカ合衆国皇帝~

ジョシュア・ノートン ~偉大なるアメリカ合衆国皇帝~アメリカ史

ジョシュア・エイブラハム・ノートン(1819年?-1880年1月9日)は19世紀のアメリカに実在した王位僭称者である。

アメリカは共和制なので君主を持たない国家なのですが、突如19世紀のサンフランシスコにて皇帝を宣言したのがこのノートンです。当然最初は狂人のたわごとぐらいにしか思われていませんでしたが、アメリカ人特有のノリの良さなのか周りの人間は次第に彼を本当の皇帝のように扱うようになっていき、最終的にノートンは多くのサンフランシスコ市民から支持を受けるようになります。またノートンの発した「勅命」の中には後年実際に果たされたものもあり、なかなか先見性を備えていた人物でもありました。今回は唯一アメリカに「皇帝」として君臨した男の人生を見ていこうと思います。

生い立ち

当時のサンフランシスコ市

イギリスの出身のイングランド人である以外詳細は不明で資産家の子息であったと言います。幼少期を南アフリカで過ごし、1849年にサンフランシスコに邸宅を購入してアメリカに移り住み、父親から受け継いだ遺産4万ドルを運用し不動産投資や食料関係のビジネスを展開し、資産を5倍以上に増やします。しかし1852年にペルー米の投機に失敗したため資産家から一転、無一文になってしまいます。この一件でノートンは邸宅を去って行方不明になり、次第に正気を失っていったと言われています。

皇帝宣言

姿を眩ましてから一年後、サンフランシスコに戻ってきたノートンは突如奇怪な行動を起こします。1859年9月17日、ノートンはサンフランシスコの各新聞社に対して手紙を送り下記のように「合衆国皇帝」たることを宣言したのです。

「皇帝宣言」の見出し

大多数の合衆国市民の懇請により、喜望峰なるアルゴア湾より来たりて過去九年と十ヶ月の間サンフランシスコに在りし余、ジョシュア・ノートンはこの合衆国の皇帝たることを自ら宣言し布告す。

―――合衆国皇帝ノートン1世
引用元:
wikipediaより

彼は合衆国の政治体制(共和制・連邦主義)に不備があると考え、これを解決する手段として「絶対君主制」の導入を思い立ったのです。
手紙を受け取った各新聞社は即位宣言はいたずらとして真に受けませんでしたが、声明を受け取った新聞社の一つであるサンフランシスコ・コール紙はジョークとして「皇帝宣言」を掲載した新聞を発行してしまいます。

掲載されたノートン

一応この布告をもって「帝都サンフランシスコ」を拠点にした合衆国「皇帝」ノートン1世がここに誕生しました。

勅命

ノートンの出した勅令

サンフランシスコ・コール紙に掲載されたノートンの記事は思わぬ反響を受け新聞はたちまち売れてしまいます。すると他の新聞社も彼に関する記事を取り上げ始めるようになり、ノートンは一気にサンフランシスコの有名人となります。それ以降ノートンは各新聞社を通して様々な「勅命」を出しました。
特に彼はアメリカの議会制に嫌悪感をもっていたため1859年10月12日にアメリカ合衆国議会を解散して全ての決定権を自分に委ねるよう命じますが、この勅令は「謀反を起こした」ワシントンの政治家たちにより無視されたため、怒ったノートンは1860年1月に新たな「皇帝勅令」を発して「アメリカ帝国陸軍」にすぐさま議会を鎮圧するよう命じますが、もちろんこれも合衆国陸軍には無視されたため嫌々ながらではあるものの議会の活動継続を許しました。

ノートンは自転車に乗り市内を巡察した

このような壮大な勅令を出すこともあれば、支配下にあると考えるサンフランシスコの街路を頻繁に「視察」に訪れサンフランシスコの街路を巡りながら彼は歩道やケーブルカーの状態、公共施設の修理の進行状況や、住民や警官の振る舞いや身だしなみに気を配りました。また彼が市政に出した勅令として以下のようなものがあります。

・街が暗いと犯罪が増えるので市内の街灯をあと5ワット明るくせよ。
・天然痘予防に貢献した医師を市は表彰せよ。
・犬のフンを片付けぬ飼い主は罰金2ドルを課すこと。
・奴隷を解放せよ。

 

ノートンの発案です(笑)

内容はなかなか的を得ており、奴隷解放に関してはリンカーンより2年早く取り上げています。他にも「クリスマスの日にはクリスマスツリーに装飾を施すべし」と命じており、この習慣は今も全世界で行われています。そして最も彼の先見性を証明する勅命がオークランドとサンフランシスコ間に架橋を建設するものでした。

朕が命じたことについて、サンフランシスコの市民はオークランドの架橋計画および隧道建設計画検討の資金を準備し、どちらの計画がより優れたるかを決定すべし。当市の市民は当命令を無視しており、朕は我が権威を顕示せんがため、かくのごとく命令する。彼らがなおも朕に逆らう場合、陸軍は両議会議員を逮捕すべし。
御名御璽 1872年9月17日 サンフランシスコ

引用:wikipediaより

現在のオークランド・ベイブリッジ

残念ながら彼の存命中に架橋は実施されませんでしたが、ノートンの死から53年後に建設が開始され現在のサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジが誕生することとなります。

愛すべき皇帝

当初は奇人と見られていたノートンでしたが、彼の温厚な人柄と国を想う姿勢にいつしかサンフランシスコの大衆は「皇帝ノートン」に敬意を抱くようになっていました。
街の高級レストランは「合衆国皇帝ノートン1世陛下御用達」と刻んだブロンズのプレートをレストランの玄関に飾りノートンに無料で食事を提供したところ、多くの観光客がこの店を訪れたため売り上げに寄与するほどでした。また警官がノートンを誤って逮捕した際はサンフランシスコの市民と新聞による強い抗議を引き起こしたため警察はすぐさま謝罪し、これ以降警官たちは「皇帝」に出会った際は敬礼するようになったといいます。

日本製の傘を愛用していた

他にもサンフランシスコ市はノートンが着ている軍服が古びてくると市当局は盛大な儀式とともに新品を買うのに足りる分の資金を提供し、その見返りにノートンは市当局に感状を送り、終身貴族特許状を発行しました。

平和を望む

襲撃を受ける中華系移民

ノートンは「皇帝」と称しましたが性格は温厚で暴力を憎み争いを嫌っていました。当時サンフランシスコでは、低賃金で働いて雇用を奪う中国系住民に対する白人市民のデモが市内の最も貧しい地域でしばしば行われており、それらはいたるところで悲惨な事態に発展していました。
ある日ノートンが偶然その現場に居合わせた際、暴徒たちとリンチを受けそうになっている中国系住民たちの間に立って彼は頭を垂れ、何度も主の祈りを口ずさみました。それを聞いた暴徒たちは恥じて解散してしまったと言います。

合衆国大統領リンカーン

またこの時アメリカでは南北戦争のため多くの者が亡くなっており、ノートンは心を痛めていました。そしてノートンはこの合衆国国民の間で起こった醜い争いを解決すべくアメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンとアメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスに手紙を送り両者に和平交渉を行うよう命じます。

連合国大統領ジェファーソン

その後、両者から返答の手紙が来ますがリンカーンは「用事があるし、会いたくない」、ジェファーソンは「履いていく綺麗なズボンがない」などの理由をつけて和平を拒否しました。
こうしてノートンの平和的解決は失敗に終わりますが、アメリカを代表する人物二人からちゃんと手紙を貰っているあたりノートンの名はアメリカに知れ渡っていたことがわかります。

Le Roi Est Mort(王崩御ス)

1880年1月8日の晩、ノートン1世は科学アカデミーでの講演に向かう途中に崩れるように倒れこんでしまいます。近くにいた警官がすぐさまノートンを病院へ搬送しましたが、病院に着いた頃にはすでに事切れていました。享年61歳。

ノートンの死を知らせる記事

翌日『サンフランシスコ・クロニクル』は「Le Roi Est Mort(王崩御ス)」というフランス語の見出しで一面に追悼文を載せ、他の新聞社もノートンの朴報についての見出しを出します。また皇帝」崩御は遠く州外にまで報じられ、「ニューヨーク・タイムス」は「彼は誰も殺さず、誰からも奪わず、誰も追放しなかった。彼と同じ称号を持つ人物で、この点で彼に立ち勝る者は1人もいない」と評する追悼記事を掲載しました。

ノートンが発行した5ドル紙幣

死去した際の彼の持ち物は、少しの現金とコマーシャル・ストリートの下宿の部屋の捜索で見つかった2.5ドルのほかは、散歩用ステッキのコレクション、ヴィクトリア女王や諸外国の大物と交わした書簡、1,098,235株の無価値な金山の株式だけでした。
当初サンフランシスコ当局は、ノートンの葬儀を通常の市民ほどの規模で行い、貧民墓地へ埋葬しようとしましたが、多くの有志たちが資金を集めたため大規模で荘厳な葬送の式典を行うことが出来ました。遺骸はアドヴェンド教会に数日安置され、社交界の婦人たちが棺の上にシダとヒヤシンスの花を献じ、追悼に並んだ人々の数は1万人を超す勢いでした。

ノートンの葬儀の様子

そして埋葬式はサンフランシスコのフリーメイソン墓地で行われ、これには3万人もの人々が参列しました。「…全ての階層の人々が皇帝に敬意を表した。資本家から貧民まで、商店主から泥棒まで、身なりのよいご婦人から卑しい出自だと見た目でわかる者たちまで」と誰もが「皇帝」との別れを惜しみ、棺に続く葬列は2マイルに及んだといくつかの記録に残されています。
こうしてアメリカ「最初」で「最後」の皇帝はいなくなりました。

ノートンの墓

現在、ノートンはカリフォルニア州コルマのウッドローン墓地に埋葬されています。墓石には「ノートン1世、合衆国皇帝、メキシコの庇護者」と刻まれており、今もアメリカを見守り続けています。

タイトルとURLをコピーしました