ヴォイテク ~ポーランド軍の兵士になったクマ~

ヴォイテク ~ポーランド軍の兵士になったクマ~第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線)

ヴォイテク(ポーランド語:Wojtek、1942年-1963年12月2日)は第2次世界大戦中のポーランド軍第2軍団第22弾薬補給中隊に所属した兵士。正式階級は伍長。

第2次世界大戦真っただ中の1942年、イギリス軍と合流すべくエジプトを目指し行軍していたポーランド軍第22弾薬補給中隊ですが、ポーランド難民から赤ん坊を引き取ります。この赤ん坊は軍隊のなかですくすくと成長し、最終的に伍長に任命され、1947年の軍隊解散のときまで第22中隊と行動をともにしました。…が、実はポーランド軍がイランの山中で引き取ったのは、シリアヒグマの赤ん坊だったのです。ヒグマが軍隊とともに生活し、伍長の階級まで与えられるなんて、にわかには信じがたいですが、このヒグマには軍籍番号や軍隊手帳が発行され、たばこや現金が支給された記録が残っています。今回はポーランド軍に従軍したシリアヒグマの数奇な運命を辿ります。

生い立ち

ヴォイテクと兵士たち

1942年、生後3か月ほどで母親を猟師に撃たれ失ったヴォイテクは、イランのハマダーン付近をさまよっていたところを現地の少年に発見されました。少年は、このヒクマの赤ん坊を缶詰2~3個と引き換えにポーランド人難民に譲ります。やがて難民にとっては手に余るようになったため、近くに駐屯していたポーランド軍に引き取られることとなりました。ヴォイテクと名付けられたのはこの時のことです。ポーランド軍に引き取られた当時、ヴォイテクはまだ赤ん坊だったため、固形の食べ物を飲み込むことができませんでした。そのため兵士たちは、このヒグマの赤ん坊に栄養を摂らせるにはどうすれば良いか考えました。いろいろ試した結果、薄めたコンデンスミルクをハンカチに染み込ませ、空のウォッカの瓶に入れてヴォイテクに与えると上手に飲んだようです。成長するにつれヴォイテクは、果物やマーマレード、はちみつやシロップなどを好んで食べました。

餌を与える兵士

イランの山中での出会い以降、イラク、シリアを経てエジプトへ、ポーランド軍第22中隊と行動を共にするにつれ、健やかに成長し、兵士たちに懐いて信頼を寄せるようになり、また兵士たちもヴォイテクの存在に癒され、愛情を注ぐようになりました。寝る場所は、幼いころは毛布や軍服にくるまれ、兵士が添い寝をしていましたが、成長し大きくなるにつれ、バスタブやトランクでベッドを用意され1人で寝ることになります。しかし、1人で寝ることを嫌がるヴォイテクは、夜中に就寝中の兵士の隣に移動し、朝になると兵士の顔をなめて起こし、驚かせることがありました。

部隊のマスコットに

兵士に寄りかかるヴォイテク

ヴォイテクは兵士たちとはレスリングやボクシングをして遊ぶのが好きで、わざと兵士に勝たせることがありました。しかし、どれだけ大きな体に成長しようと、兵士にけがを負わせるようなことはただの一度もありませんでした。また泳ぐことや、水遊びをすることが好きで、シャワーを使うことを覚えました。兵士たちと過ごす時間が増えるにつれ、次第にヴォイテクは人間に似た仕草をするようになっていきます。ほかの兵士と同じように前足で敬礼をするようになったり、怒られるとバツが悪そうに目元を前足で隠したり、独りぼっちにされると寂しくなって鳴いたり。またビールを飲むことが好きで、兵士から与えられたタバコを食べたりもしました。

酒類を小熊の時から与えれていた

ヴォイテクがビールを好むのは、赤ん坊のころ口にしたミルクにウォッカの味やにおいがついてしまい、アルコールを覚えてしまったのではないかと考えられています。愛らしいヴォイテクは軍隊のなかで当然のように人気者となり、第22弾薬補給中隊の非公認マスコットになりました。

ポーランド軍への徴兵と第22中隊への配属

ヴワディスワフ・アンデルス

1944年、ヴォイテクが行動をともにしていた中隊がイタリアに配置されることになり、アレクサンドリア港から船に乗り、イタリアへと向かわねばならなくなりました。しかし中隊が船に乗る直前になって、ある重大な問題が発覚してしまうのです。それは、ポーランド軍には「動物やペットは輸送船に乗せられない」というルールがあったので兵士にしか乗船の許可が下りず、ヴォイテクは乗船が断られてしまったのです。しかし、ここでヴワディスワフ・アンデルス中将が仰天のアイディアを繰り出し、状況を打開したのです。そのアイディアとは、ヴォイテクを正式にポーランド軍に徴兵し、第22弾薬補給中隊に配属させることでした。

軍用犬と睨み合うヴォイテク

さらにヴォイテクに伍長という階級を与え、軍籍番号と軍隊手帳を発行したのでした。アンデルス中将のアイディアが功を奏し、無事ヴォイテク伍長は第22中隊とともに乗船が認められました。

モンテ・カッシーノの戦いでの戦功

灰塵と化したモンテ・カッシーノ

イタリア上陸後、初めて本格的な戦闘を目の当たりにし、当初は大きな音に動揺を隠せない様子のヴォイテクでした。しかし爆撃音にも徐々に慣れると木に登り、遠くの爆発を眺めるようなこともありました。するとある日、トラックに荷物を積み下ろししている兵士を見ていたかと思うと急に立ち上がり、兵士に近寄ってきて、運ぶ荷物をよこせと言わんばかりに前足を差し出し、重い荷物をトラックに積み込み、さらに次の荷物を要求しました。

ヴォイテクを象ったエンブレム

枢軸国であるドイツ・イタリアからローマを解放するために計画されたモンテ・カッシーノの戦いは激戦となりましたが、ヴォイテクは第22弾薬補給中隊の一員として弾薬を運ぶ任務を忠実にこなし、連合軍の勝利に少なからず貢献しました。鍛えられた兵士であっても1人では運べない弾薬箱や迫撃砲の弾丸、補給物資の箱をしっかりと持ち、1度も荷物を落とすことなく任務を終えたヴォイテクの勇気を認め、ポーランド軍司令部は、砲弾を運ぶクマの絵柄を第22弾薬補給中隊の公式シンボルとすることを承認しました。

終戦後

イギリスでのヴォイテク

第2次世界大戦終結後、ソ連が支配することとなった祖国ポーランドへ戻ろうとする中隊の兵士はおらず、大勢がイギリスへの亡命を希望しました。ヴォイテクと兵士約3,000名はスコットランドのベリックシャーにあるキャンプに移送されました。ヴォイテクは、この地でもすぐに人気者となります。村の舞踏会や子供たちのパーティーやコンサートなどに参加、また子供を背中に乗せて遊ばせたり、川で泳ぎを披露しました。やがて1947年にポーランド軍が解散することにともない、11月15日ヴォイテクはエディンバラ動物園に預けられることになったのです。

現在のエディンバラ動物園

かつての戦友が動物園を訪れると、好物のタバコを与えたり、檻の中へ入ってレスリングに興じることもありました。聞きなれたポーランド語には耳を動かして反応し、動物園を訪れた元兵士が音楽を聞かせると体を揺らして楽しんでいました。エディンバラ動物園でも相変わらずの人気ぶりでしたが、動物園での生活はヴォイテクにとっては退屈なものでした。狭い空間での孤独な暮らしは、ヴォイテクに精神面でも大きな負担をかけました。

新聞に掲載されたヴォイテク

結局動物園での生活には馴染めなかったようです。晩年、リウマチによる関節の変形や食道の病気、そして岩山から落ちる危険性があるということで狭いケージに入れられるようになりました。1963年12月2日、ヴォイテクは21歳でその生涯を閉じました。

おわりに

戦場にいた方が幸せだったのでしょうか…。

ヒグマの平均寿命は30~40歳といわれており、21歳で生涯を閉じたヴォイテクは比較的短命でした。生まれてから5年を人間と暮らし、残りの16年間は動物園で生活します。生後間もなく母親を失い、奇跡的に拾われたことで動き出した運命、人間との共同生活を送るうちに自分は人間だ、と思っていたに違いありません。それなのに、終戦によって人間たちの都合により動物園に預けられ、なんでこんなところで暮らさなければならないのか、悶々とした日々を送っていたのではないでしょうか。ヒグマの人生としては幸せだったのでしょうか。そう思うと少し悲しい気持ちにさせられます。

スコットランドのダンス町内のヴォイテク像

しかしヴォイテクの存在は、愛する妻や子どもを祖国に残し、明日の命があるかも分からない不安な生活を送る兵士たちの心に安らぎを与えました。戦場で大きなストレスを抱える兵士たちにとって、ヴォイテクは何物にも代えがたい存在であったことは間違いありません。砲弾を運んだことよりも、兵士たちに癒しを与えうる存在であったことが、ヴォイテクがこの世に生まれた意味だったのではないでしょうか。

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