里見甫 ~満洲の阿片王とは何者だったのか~ 前編

里見甫 ~満洲の阿片王とは何者だったのか~ 前編第二次世界大戦(太平洋大東亜戦線)

1931年9月18日。柳条湖事件に端を発して満洲事変が勃発、関東軍によって満洲全土が占領され、関東軍主導の下に1932年3月1日に満洲国が建国されます。この満州国は日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人などによる”五族協和”と”王道楽土”の崇高な理念を掲げて建国に至ったものですが、いつの時代の国家の崇高な理想の裏には必ず影があるものです。”東洋のアメリカ”を目指した満洲国を裏で支えていた阿片産業を一手に引き受けた里見甫とは何者だったのでしょうか?今回は”阿片王”と呼ばれた男が満洲の地に躍り出るまでを紹介したいと思います。

生い立ち

1896年(明治29年)1月22日に里見甫(※さとみはじめ 以下里見)は父・里見乙三郎と母・スミとの間に誕生。出生地について九州の小倉、または秋田の能代とも言われていますが、何故か戸籍に出生地は記載されておらず詳細は不明です。

父親である乙三郎は帝国海軍の軍医でしたが、退役後は開業医として生計を立てます。乙三郎は日本各地の炭鉱を周り炭鉱夫たちの治療に当たっていましたが、お金に執着しない性格だったため治療費を取らないことが多々あったそうです。

現在の修悠館高等学校(※wikipediaより)

里見家は元々を辿れば安房の大名である里見家を発祥とし、その後は加賀百万石で有名な前田家の客分として仕えた家柄でしたが、乙三郎の無償の治療もあって、今では貧乏な一家庭となっていました。そんな貧しい家庭の中で里見は母親スミの愛情を受けて育ちます。

小学校を卒業後、福岡県の伝統校である中学修猷館(※現福岡県立修猷館高等学校)に入学しますが、素行不良で喧嘩と柔道に明け暮れ、勉学は全くといったところでした。また、母親のスミが亡くなるとさらに喧嘩に拍車が掛かると言った有様でした。

孫文

そんな里見でしたが、1913年(大正2年)、修猷館にとある人物が姿を現します。その人物とは「中国革命の父」と呼ばれる孫文でした。孫文はこの時、数年前に辛亥革命を成功させ、革命を支援してくれていた福岡の政治結社である玄洋社を尋ねるために日本を訪れていたのです。

里見は孫文の前で得意の柔道を披露し、感激した孫文から通訳を通して激励を受けます。この日を境に里見は中国大陸に興味を抱くようになります。

上海へ

修猷館を卒業後、父親の乙三郎に進路を尋ねられた里見は上海の私立学校である東亜同文書院の入学を希望します。実際は成績優秀でなければ東亜同文書院には入学は出来なかったのですが、乙三郎が玄洋社社長の進藤喜平太にに嘆願したことにより、特別留学生として入学することができたのです。

東亜同文書院虹橋路校舎(※wikipediaより)

上海に渡った後は3年間留学生として現地に滞在し、”魔都”上海にて己の見聞を広めます。勉学はともかく徹底した中国語の勉強と大陸調査は良い経験となり、後に里見を助けることとなります。また、この時に東亜同文書院に後輩として玄洋社総裁の頭山満の息子である頭山立助と後に朝日新聞北京支局の記者となる中山優と出会っています。

帰国

東亜同文書院を卒業後、満州鉄道上海駐在員である山田純三郎の紹介で山東省青島(チンタオ)の貿易会社に勤務します。里見はそこで現地の中国人との交渉のコツや、ラチがあかない時の賄賂の渡し方などを学習し、会社の実績に貢献しますが、第一次世界大戦後の大不況で僅か数年で倒産してしまいます。

孫文と親交があった山田純三郎(左)

仕方なく日本へと帰国し、東京でレンガ積み、荷車押しなどの日雇いの仕事で生計を立てていましたが、後輩の頭山立助から朝日新聞の特派員として中山優が人材を探していると聞くと、再び中国大陸へと渡ることを決意します。

ジャーナリストへの転身と動乱の中国大陸

1919年(大正8年)7月(※1921年説あり)、日本を発した里見は天津に降り立つと、中山の紹介で京津日日新聞社に就職します。就職したと言っても社長と編集長を合わせても数人しかいない会社であったので、ほとんどの分野に取り組まねばならず、多忙の日々を送ります。しかし、この時に中国語と英語が飛躍的に上達し、語学力に自信をもつようになります。また、戦後に総理大臣となる吉田茂が天津総領事官として赴任すると、里見に出会った吉田は彼を大変気に入るようになります。

張作霖

一方で中国大陸は袁世凱が亡くなり、各地方を根拠とする軍閥割拠の時代に突入。北方では張作霖と呉佩孚の二人が激突し(奉直戦争)覇権を争いますが、これを特ダネと見た里見は張作霖に独占インタビューを敢行し、見事にスクープをモノにします。

また1923年(大正12年)5月に発生した”臨城事件”にも取材を行います。この事件は外国人を多数乗せた急行列車が山賊に襲われるという事件だったのですが、乗客に世界的大富豪のロックフェラーの関係者が多数いたため英米の中国介入を加速させた大事件でした。

これらの記事により里見の名は一気に広まり、北京新聞社の波多野乾一から移籍するよう請われたため、北京新聞社へと移ります。しかし、波多野は数ヶ月で日本電報通信社(※現電通)へと転職したため、正社員は里見ただ一人となってしまいます。

たった一人となった里見でしたが、北京各地の日系企業を訪れ資金調達に奔走します。幸い日本の巨大企業の組合組織であった”泰平組合”(※三井、三菱、高田商会の三社)をスポンサーとして取り付けることに成功し難を逃れます。また、徹底した現地取材を重視し、日本人がほとんど知らなかった大陸情勢の内情を伝えたため新聞の部数は好調となりますが、時には新聞の内容に激怒した一部軍閥たちから妨害活動を受けるなど危険な目に合うこともありました。

関東軍と国民党との関わり

1925年(大正14年)3月、里見が敬愛していた孫文がこの世を去り、蒋介石が跡を継ぎます。蔣介石は中国全土を平定すべく1927年(昭和2年)5月に北伐を敢行。翌年には山東省にまで迫り、日本の関東軍と中国国民党軍は済南にて激突し、多数の死傷者を出します。(済南事件)

1926年頃の蒋介石

膠着状態を打破すべく関東軍の建川美次少将らは国民党要人らと深い関係のある里見に調停を依頼します。里見は2カ月に及ぶ秘密工作の末、国民党との協定文書の調印に成功。蔣介石率いる北伐軍は済南を迂回し、北京へと軍を転進させます。

この大仕事を終えた里見は北京新聞を間もなく退職し、満洲鉄道の南京事務局の嘱託社員として勤務しますが、これは蔣介石が北伐を成功させ、首都を北京から南京へと遷都したことに合わせての行動でした。

柳条湖の爆破現場写真

ここでも里見は満鉄職員として手腕を発揮し、国民党政府に鉄道車両機材を売り込み、ビジネスマンとしても成功を収めますが、そんな里見を関東軍が放っておくはずはなく、1931年(昭和6年)9月、柳条湖事件に端を発した満洲事変が起こると、里見は突如「関東軍第4課の出向を命ず」との辞令を受けることとなります。

仕事の内容も分からぬまま里見は満洲奉天へと向います。

満洲国内での宣伝工作と満洲国通信社の設立

甘粕正彦

奉天に辿り着いた里見を出迎えたのは第4課課長の松井太久郎中佐、そして後に”満洲の影の支配者”とよばれる甘粕正彦らの姿がありました。ここで里見は満洲国内における宣伝および宣撫(※占領地においての人心安定工作)を命ぜられます。

早速、里見は工作班を率いて即座に宣伝用パンフレットなどを作成すると、各地で工作を開始し、人心掌握に努めます。一方で関東軍は誕生して間もない満洲国の国際的な正当性、認知度を知らしめるべくある計画を立てていました。

その計画は当時の新聞連合専務理事の岩永祐吉が外国通信社や新聞社、国内の営利目的で誤ったニュースの流布によって満洲国の国際的地位低下を危惧したことをまとめた文書「満蒙通信社論」を読んでのことでした。

岩永祐吉

当時、アメリカのAP通信社、イギリスのロイター通信などの通信社による情報発信は世論を味方につけるための重要な政策でした。関東軍はこれらの外国通信社と提携し、国際世論を動かし満洲国を認知させるべく一大国際通信社の設立を決定。しかし、そのためには新聞連合社と日本電報通信社との合併は不可欠だったのです。

この大計画の社長に里見は抜擢されます。もともとは予備役であった陸軍中将の高柳保太郎が相応しいとの声があったのですが、元軍人がトップでは国際世論に支障をきたすということと、現地に太い人脈を持つ里見の方が適任であるという思惑があっての抜擢でした。

光永星郎

里見はこれを承諾し、一時日本へと帰国し、新聞連合社の岩永祐吉ら首脳と会見を行い快諾を受けます。しかし、一方の日本電報通信社の創業者である光永星郎ら首脳陣らはこの計画に反発します。半官企業である新聞連合社に対し、民間企業の日本電報通信社の合併では新聞連合社に主導権を握られる可能性があったからです。

交渉は難航しますが、里見の交渉により電報通信社は折れる形でこの案を承諾し、1932年(昭和7年)12月1日、満洲国の首都である新京に”満洲国通信社”が誕生。設立当初は新京市内のお堂で謄写輪転機を回し、社員はそこで雑魚寝というありさまでしたが、僅かな期間で最新の無線機を導入し、満洲全土に通信網が引かれ、社員の数は1500人以上という大企業へと変貌します。

国通主幹から阿片産業へ

満洲国初の国際通信社の主幹(里見の要望により”主幹”と呼ばれる)に就任した里見がまず着手したことは欧米の大通信社とのネットワーク構築でした。そのため、上海に拠点を置くイギリスロイター通信の極東支配人クリストファー・チャンセラーと会談を行います。

松本重治

このとき、里見を手助けしたのが連合上海支局長であった松本重治でした。彼は里見と同じくジャーナリスト上がりで英米系の関係者と太いパイプを持ち、チャンセラーとは友人でありライバルでもありました。また終戦後、松本は政財界に大きな影響を持つ人物となります。

こうして松本の手引きにより1933年(昭和8年)5月、ロイター通信社と満洲国通信社は互いに情報を提供する契約を無事に締結することに成功し、満洲国通信社は徐々に軌道に乗り出します。

このまま、通信社の社長として敏腕を奮うのかと思いきや、関東軍はさらに里見に工作を依頼します。このころ、天津フランス租界の一角で「庸報」という華字新聞社があったのですが、創設者の董顕光は日本を激しく非難する記事を執筆し、現地民から支持を受けていました。

それだけなら放っておけば良いものだったのですが、董顕光のバックにはアメリカが関与しているとの情報を掴んだ奉天特務機関長の土肥原賢二少将はこれを捨て置くわけにいかなくなっていたのです。

土肥原賢二

そこで土肥原少将が庸報に圧力をかけて買収し、その庸報を改革すべく里見に社長となって欲しいと依頼した訳です。さすがの里見もこの件には気乗りせず断ろうかと考えますが、やむを得ず1935年(昭和10年)10月、周りが驚く中、満洲国通信社の主幹を突如辞任し、天津へと出立します。

その年の12月には庸報の新社長へ就任し、社屋を日本租界地へと移転。新聞内容の改革に取り掛かります。里見の指導により庸報の内容は一転し、それまで抗日的内容であった紙面が親日的な内容へと変貌したのです。

この時のことは里見にとって良い思い出でなかったらしく、生前後悔していたと言います。しかし、里見にはこれとは別に新たな仕事に着手しなくてはならず、その新たな仕事こそ里見を”阿片王”として世に知らしめていくことになるのでした。

阿片を巡る策謀の渦へ

熱河省の位置

里見が天津を訪れる約2年ほど前に話は遡ります。1933年(昭和8年)3月、関東軍は満洲と中国本土の狭間であった熱河省を攻略すべく進撃を開始。”熱河は満洲の一部である”というのが侵攻の大義名分でしたが、この地は阿片の原料となる上質なケシの実の一大産出地帯でもあったのです。

一方の中華国民党を始めとした各軍閥側にとっても阿片産業は重要な財源であり、関東軍が熱河省を手に入れると彼らの阿片マーケットに関東軍の阿片が流入する形になり、財源の遮断は免れないことは明白でした。正に”阿片を制するものが中華の地を制する”といっても過言ではなかったのです。

アヘンの原料となるケシの実

結果として戦いは関東軍の勝利に終わり、この年の5月31日に日本と国民党を中心とした中国軍閥側との間に停戦協定(塘沽協定)が結ばれ、一応の形で柳条湖事件から端を発した満州事変の軍事衝突は終わりとなりました。

しかし、両軍の緊張は解けず1937年(昭和12年)7月7日、日本軍と国民党軍は盧溝橋事件により再び衝突し、日中戦争へと突入してしまいます。

影佐禎昭

一方、里見は参謀本部第8課(謀略課)課長の影佐禎昭から連絡を受け、至急上海まで来るよう依頼を受けます。11月、上海に到着した里見は影佐から話を聞きます。その内容は「蔣介石率いる国民党軍の中の親日和平派である汪兆銘らと独自に交渉するための莫大な資金調達」でした。

そのために新たな阿片の販路管轄を里見に任せたいとのことだったのです。阿片の産出地はイランペルシャ。日中和平の大義のためと懇願する影佐の頼みに里見は答えるしかありませんでした。

後に「阿片王」と呼ばれる里見の最初の大仕事でした。

後編へ続く

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