工藤俊作 ~敵兵を救助せよ!海の上のサムライ~

工藤俊作 ~敵兵を救助せよ!海の上のサムライ~第二次世界大戦(太平洋大東亜戦線)

1941年(昭和16年)日米交渉も虚しく、日本、アメリカ両国は太平洋戦争へと突入。真珠湾強襲を皮切りに日本は戦局を有利に展開し、東南アジアへと軍を進めます。これを阻止すべく連合国軍はアメリカを中心としたABDA艦隊を結成し、ジャワ島周辺にて激戦を繰り広げます。この時、一人の日本人艦長が敵であるイギリス艦隊の漂流者たちを発見し、ある決断を下します。過酷な戦場において武士道精神を貫いた海の上のサムライをご紹介します。

生い立ち

1901年(明治34年)1月7日、山形県東置賜郡屋代村(現・高畠町大字竹森)で、農家の工藤七郎兵衛の次男として誕生。山形県立米沢中学校(現・米沢興譲館高校)を経て、1920年に海軍兵学校に第51期生として入学します。

海軍兵学校生徒館(現海上自衛隊幹部候補生学校)

身長185センチ、体重95キロという当時の日本人としては並外れた体躯に恵まれながらも、温和な性格のため「工藤大仏」と呼ばれるほどでした。しかし、柔道の有段者でもあり、いざという時は優れた判断力を示したため、決してただの”独活の大木”ではありませんでした。

鈴木貫太郎

また、この時の海軍兵学校の校長であった鈴木貫太郎の教えに強く感銘を受け、後の工藤に大きな影響を与えることとなります。

海軍士官として

1923年に海軍兵学校を卒業。オーストラリア・ニュージーランド方面の練習生として着任し、練習艦「磐手」に配属されます。この「磐手」の艦長が後の連合艦隊司令長官及び、内閣総理大臣となる米内光政であったのは何か不思議な縁を感じさせます。

米内光政

遠洋航海終了後は軽巡洋艦「夕張」に配属され、1924年10月に戦艦「長門」に転属。同年12月に正式に海軍少尉へと昇進します。その後、水雷学校、砲術学校の生徒として技術を習得すると駆逐艦の水雷長として多くの艦を歴任し、1937年に海軍少佐に昇進。翌年7月1日に駆逐艦「太刀風」の艦長となります。

駆逐艦「雷」

初めて艦長になった工藤でしたが、12月には陸上勤務へと転属となり、1940年には海軍砲術学校教官、横須賀鎮守府軍法会議判士として勤務することとなります。同年11月、日米関係の悪化が懸念される中、工藤は駆逐艦「雷(いかずち)」の艦長に着任。日米開戦まで約1年と差し掛かった時でした。

日米開戦と南方作戦

1941年(昭和16年)日米交渉は決裂し、遂に両国は激突。12月8日未明、連合艦隊司令長官である山本五十六大将の指揮下でハワイ真珠湾攻撃が行われます。同時刻、南方資源の確保のため日本軍は南方作戦を発動し、米英蘭の東南アジア拠点の攻略を開始します。

香港の戦い※wikipediaより

工藤が指揮する「雷」は第六駆逐隊に所属し、開戦時には僚艦「電(いなずま)」とともに第二遣支艦隊に属し”香港の戦い”に参加して海上封鎖を行います。この時、「雷」は陸上より砲撃を受けたため、雷の乗員たちは不安になりますが、工藤は普段通り淡々と命令を下したため、乗員一同は工藤がいる限り沈むことはないと確信したと言います。

駆逐艦「電」

その後、「雷」は戦艦「榛名(はるな)」を旗艦とする南方部隊本隊東方支援隊に編入され、蘭印作戦等の南方の諸作戦に参加することとなります。

スラバヤ沖海戦

1941年(昭和16年)12月10日にマレー沖海戦で日本海軍はイギリス東洋艦隊を撃滅すると、アメリカ領フィリピンの大部分の占領に成功。翌年にはオランダ領インドネシアの攻略を開始します。

ABDA戦域への日本軍の侵攻経路※wikipediaより

南下を続ける日本軍を阻止すべく米軍を中心とした連合国はABDA艦隊(アメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアの4か国)を結成し、これを迎え撃ちます。1942年(昭和17年)2月27日、インドネシア・ジャワ島を巡る”スラバヤ沖海戦”が幕を開けます。

工藤が指揮する「雷」もこの戦いに参加し、両軍の戦いは熾烈を極めます。しかし、航空機の支援攻撃に勝る日本軍の前にABDA艦隊は次第に劣勢となり、ジャワ島からの撤退を模索します。この時、ABDA艦隊でまともに戦える船は僅か3隻という有様でした。

日本軍の攻撃を受けるイギリス重巡洋艦エクセター

翌28日夕方、英重巡艦エクセターは駆逐艦ポープ、エンカウンターを従えてスラバヤ沖を出港。脱出を図るも、3月1日午前0時ごろにジャワ島西部上陸作戦中の日本軍輸送船団と遭遇し、戦闘に突入します。

工藤の決断

イギリス艦隊3隻は奮戦しますが、次第に日本軍の艦隊が駆け付けこれを包囲します。工藤の指揮する「雷」もこれに加わり一斉攻撃を開始。遂に3隻は全ては沈没してしまいます。

沈没するエクセター

3隻の乗組員たちは海へと脱出しますが、周辺の海域は日本軍に占領されており、友軍により救助は絶望的な状況となっていました。このとき沈没した英駆逐艦エンカウンター乗組員のサムエル・フォールらは21時間余りも海上を漂流し、次第に衰弱し溺死する仲間たちを見て希望を失いかけます。

一方、戦闘後の海域を哨戒任務中の「雷」は漂流するフォールらを乗組員を発見します。これを見た工藤は一言を発します。「おい、助けてやれよ」と。

敵兵を救助せよ!

まさかの工藤の発言に乗組員たちは動揺します。相手は少し前まで戦っていた敵であり、戦争中です。助ける義理などはありません。さらに、漂流者の数はおよそ400人以上、雷の乗組員150人を超えており、艦を乗っ取られる可能性も否定できませんでした。

しかし、工藤はこれは艦長命令であると告げ、各員に号令を掛けます。雷は「救難活動中」の国際信号旗をマストに掲げると、乗組員たちは一斉に甲板に赴きロープやはしご、竹竿など艦内にある物全てを使って漂流者の引き上げ作業に取り掛かります。

救助されたイギリス兵たち※太平洋戦争史と心霊世界より

最初、イギリス艦漂流者たちは殺されると思い、なかなか引き上げに応じませんでしたが、「エクセター」「エンカウンター」の艦長、及び副艦長が救助されるのを見るとイギリス兵は雷に殺到します。一時、パニック状態となりましたが、先に救助された艦長らが号令すると、イギリス兵らは冷静さを取り戻し、落ち付いて引き上げ作業に応じたと言います。

作業に当たっていた佐々木確治一等水兵は、理路整然としたイギリス兵たちの動きに感心したと同時に、各員がそれぞれライフジャケットを装備しているのを見て、日英の兵士の”命”に対しての認識の違いに衝撃を受けたと言われています。

救助後

救助から間もなく、救助されたイギリス兵らは雷の甲板に集められ、工藤よりこう語りかけられます。

You had fought bravely. Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.
I respect the English Navy. But, your goverment is foolish make war on Japan.
(諸官は勇敢に戦われた。今あなた方は日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。しかし、今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである。)

その後、雷乗員はイギリス兵らを手厚く歓迎し、着替え、水、食料を提供し、丁重に対応しました。この時、助けられたサムエル・フォール氏らは正に「奇跡が起きた」と述懐しています。

救助者でいっぱいとなった雷は遠目から見ても分かるほどあり、これを見た蘭印攻略部隊指揮官高橋伊望中将は唖然としながらも工藤の懐の深さに苦笑したといいます。

オプテンノール号

救助されたイギリス兵たちはその後、インドネシア島バンジェルマシンに停泊中の拿捕船オプテンノールに引き渡されました。その際、救助されたイギリス士官一同は「雷」のマストに掲揚されている旭日旗とウイングに立つ工藤に対して敬礼を行い、感謝の意を表明し雷を後にしました。

その後の工藤俊作と雷

南方作戦後、工藤の指揮する雷はフィリピン部隊に編入。その後、内地帰還を命ぜられて1942年5月にはキスカ・アッツ島攻略作戦などに参加しますが、8月に「雷」を降り、中佐に昇進するとともに駆逐艦「響」の艦長に移動となります。

甲板にてくつろぐ工藤俊作艦長

空母の護衛を主な任務とした後、内地勤務となり海軍施設本部や横須賀鎮守府総務部、海軍予備学生採用試験臨時委員などを務めることになりました。

一方、「雷」はガダルカナル島の戦いなど激戦地を転戦します。しかし、反攻作戦に転じたアメリカ軍に次第に日本軍は劣勢となっていました。そして1944年(昭和19年)4月、サイパン島に向っていた雷はアメリカ潜水艦ハーダーに発見され、あえなく撃沈されてしまいます。

ガトー級潜水艦「ハーダー」

雷の乗員は艦長の生永邦雄少佐以下238名全員が戦死。当日の夜、工藤は雷に乗艦していたかつての部下たちが「艦長!」「艦長!」と駆け寄り、工藤を中心に輪を作るように集まって来て静かに消えていく、という夢を見た工藤は、飛び起き、雷に異変が起きたことを察知します。

終戦

雷撃沈後、工藤は次第に体調を崩すようなり、1944年に療養のため待命の身となります。そして1945年(昭和20年)8月、日本の降伏により第二次世界大戦は幕を閉じます。

戦後、工藤は故郷の山形に隠棲した後、妻である”かよ”夫人の姪が埼玉にて病院を開業したので、事務員として勤務しますが、部下たちの死に苛まれたためか、戦時中の出来事に関しては何も口にしなかったと言います。

そして1979年(昭和54年)胃癌により、工藤はこの世を去ります。享年78歳。世を去る直前、兵学校同期の大井薫氏と正木生虎氏が工藤を見舞うため駆け付けると、工藤は「ああ大井か、正木か。貴様たちはおおいにやっているようだが、俺は独活の大木だったなあ…」とつぶやき静かに息を引き取りました。

サムエル・フォール氏の来日

2008年(平成20年)12月、かつて英国駆逐艦「エンカウンター」に乗船していたサムエル・フォール氏が来日し、埼玉県川口市にある工藤の墓を訪れます。

フォール氏は終戦まで日本軍の捕虜として過ごし、戦後はイギリス外交官として活躍していました。また、命を救ってくれた工藤に是非もう一度会いたいと考えており、工藤の消息を探していたのです。

工藤の墓を訪れるフォール氏※news archivesより

工藤俊作に関する情報は本人が全く戦時中のことを話さなかったこともあり、捜索は難航しましたが、フォール氏と多くの日本の協力者の努力により、遂に工藤俊作の墓を見つけ出すことに成功します。

心臓病を患い心身ともに限界が迫るフォール氏の訪問は、駐日英国海軍武官のチェルトン大佐や海上自衛隊護衛艦「いかづち」の艦長以下乗員らによって見守られながら、約66年9か月ぶりの「再会」を果たしたのです。

おわりに

正装姿の工藤俊作

工藤俊作氏は海軍兵学校時代の校長・鈴木貫太郎の教えである「士官たる前に紳士たれ」を忠実に守り、艦内において一切の私的暴力行為を禁止し、日頃士官や先任下士官に、「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」と口癖のように言っていたと言います。

そのため、部下たちの士気は日ごろから高く、”工藤艦長のためならいつ死んでも悔いはない”とまで言われるほどの人格者でだったそうで、筆者は戦国時代の武将「立花宗茂」を思い出しました。

また、工藤艦長の救助活動により助けられたフォール氏が外交官となり、戦後イギリスの日本に対する感情を大きく緩和させた功績を鑑みて、もっと多くの人に工藤氏の存在と彼の貫いた「武士道」は知られても良いと筆者は思います。

現在、工藤俊作艦長は埼玉県川口市にある薬林寺にて静かに我々を見守っています。

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