フレデリック・バンティング 命を救う奇跡のホルモンを見つけた若き医師

フレデリック・バンティング 命を救う奇跡のホルモンを見つけた若き医師カナダ史

フレデリック・バンティングFrederick Grant Banting、1891年11月14日 – 1941年2月21日)は、カナダの医師、医学者。史上最も若くしてノーベル生理学・医学賞を受賞した人物である。

今から約100年前の1922年1月11日、糖尿病に苦しむ14歳の少年のやせ細った体に、世界で初めてのインスリン注射が施されます。以来、糖尿病患者、特に死亡率の高かった若年層の患者の命のホルモンとなっているインスリン。このホルモンを発見したのが、カナダ人医師のフレデリック・バンティングです。彼は1923年に、共同研究者のジョン・ジェームズ・リチャード・マクラウド(英国)とともに最年少でノーベル生理学・医学賞を受賞し、当時の医学会に大きな寄与を果たしました。そんなオンタリオ州の片田舎で生まれた偉大な一青年の生涯を一緒に見ていきましょう。

片田舎から大都市、トロント大学へ

現在のトロント大学

バンティングは英国系カナダ人家庭の6人兄弟の末っ子として、1891年11月14日に生を受けました。両親は勤勉な農夫。家族はカナダ最大の都市トロントから約60キロほど離れた、アリストンという町で生活していました。ごくごく普通の少年時代を過ごしたバンティングは、高校を卒業するとトロント大学に進学します。この時の学部はリベラル・アーツと呼ばれる、いわゆる人文科学課。

フレデリック・バンティング

敬虔なカトリック家庭に育ったバンティングは、ぼんやりと牧師になることを考えていたようです。しかし、この課程は大変難しいもので、落ちこぼれとなったバンティングは大学に入って1年目にして進路を変えてしまいます。これが、バンティングが医学の道に進むこととなった理由です。当時の医学課程は現在よりも入学が簡単だったのです。

第一次大戦で軍医として活躍

死傷者が爆発的に増えた第一次世界大戦

1914年に勃発した第一次世界大戦での医師不足のため、1916年、バンティングはトロント大学の医師課程からたたき出されるように卒業し、勉強もそこそこに英国の軍事病院に医師として送られます。そしてフランスへ送られたバンティングは負傷。しかし、そこで実際の戦火を潜り抜けたからこそ分かる外科とリサーチの大切さを感じ母国に戻るのでした。バンティングは、この大戦での勇気を称えられてミリタリー・クロス(MC)という勲章を受章しています。

大学で教鞭をとるバンティングに訪れた運命の夜

留学生からの人気の高いオンタリオ大学

その後、トロントの小児病院(Hospital for Sick Children)で一年間の整形外科学の研修を受けたバンティングでしたが、トロントの病院で就職口が見つからず、オンタリオ州南西部のロンドンという町で開業医となります。そこから、ロンドンにあるウエスタンオンタリオ大学でいくつかの講義を担当するなどのきっかけを掴むのです。そして、ある夜、医学生へのレクチャーの準備のために医学誌を読んでいたバンティング。

モーゼス・バロン

ある論文が気になりました。1920年10月31日のことです。その論文は、モーゼス・バロンのもので、「膵臓の外分泌管を縛り十二指腸から切り離しても糖尿病にはならない」とあります。つまり、糖尿病の治療するためには消化酵素ではなく、何か別のものが必要であるということです。

糖尿病の治療法を探す2人の医師

糖尿病1型の仕組み ※日本イーライリリーより

当時、糖尿病への治療は「減食療法」のみでした。糖尿病には1型と2型の2種類があります。簡単に言うと、1型は生まれ持ったもの、2型は食生活などから起こることが多いと言われます。2型の患者であれば「減食療法」で膵臓の本来の働きを取り戻すことが望めますが、1型の患者は膵臓から必要なホルモン(インスリン)が全く出なくなってしまうので「減食療法」での治療は困難です。特に、若年層の患者には、糖尿病は死を意味する病気だったのです。

ジョン・ジェームズ・R・マクラウド

バンティングは論文からアイディアを練り、同僚のF.R.ミラー教授に話した結果、ウエスタンオンタリオ大学ではなく、トロント大学で支援を求めることにします。そして1921年5月17日にバンティングはトロント大学で研究を始めるのです。トロント大の受け入れ教授はジョン・ジェームズ・リチャード・マクラウド博士、助手に学生だったチャールズ・ベストが付きます。

チャールズ・ベストとバンティング

研究は犬の膵臓になる膵管を縛り、外分泌細胞を委縮させるものでした。外分泌細胞の働きが糖尿病に関係ないのなら、その細胞がなくなった残りの部分にある「何か」を取り出せるのではないかというアイデアでした。その案に多少、引き気味だったマクラウド博士でしたが、自分が大学の夏休みでいない間も研究室を自由に使ってよいという許可を出したのです。

インスリンの発見。トロントで起こった奇跡

実験に成功したバンティングとベスト

1921年7月30日、マクラウド博士不在の夏、バンティングとベストは膵臓からの抽出物を投与した糖尿病の犬の血糖値が降下するのを確認、初期のインスリンの発見となります。この実験結果に基づいてマクラウド博士はさらなる実証実験と研究チームの拡大を承認。そして、1921年から22年の冬にインスリンの発見を再確認。1922年5月3日にワシントンDCで医学界に発表されました。その時の研究チームはバンティング、ベスト、マクラウド博士、その助手のジェームズ・B・コリップ他3人でした。

若干32歳、史上最も若いノーベル賞受賞

初の治療者レオナルド・トンプソン

インスリンの発見は世界を驚かせ、多くの命を救いました。インスリンがどれほどの大発見だったのか、それは翌年1923年、異例の速さでノーベル賞がバンティングに与えられことからよく分かります。当時バンティングは若干32歳、カナダ人初のノーベル賞受賞であり、歴代最年少のノーベル賞受賞者となります。インスリンは共同研究の結果ですので、ノーベル賞はマクラウド博士との共同受賞。しかし残念なことに問題が起こります。若く勢いのあるバンティングと、注意深い科学者のマクラウド博士は折り合いが悪いところがあったためです。

ノーベル賞のメダル

バンティングが訴えたのは、発見したのは自分であり、それを補助したのはマクラウド博士ではなく助手で大学院生であったベストであるというものです。一方でマクラウド博士はインスリンは自らの研究室で作られたものであり、初期の発見こそバンティングたちの功績であるが、実際の運用に至るまでには自分の助手であるコリップの援助が必要だったとして、彼の名前が入っていなかったことに異議を唱えます。結局、バンティングとマクラウド博士が自らに与えられた賞金を、それぞれ半分、助手に与えることになりました。

実際、コリップも大きく貢献している

現在では、インスリンの発見者はバンティングであるが、マクラウド博士の慎重なアプローチとコネクションなどがなければ、若い1人の開業医であるバンティングがその素晴らしい発見を世に送り出す事はできなかっただろうと考える人が多くなっているようです。

ノーベル賞受賞、その後

世界各地でインスリンは使用されている

バンティングはトロント大初の医学リサーチの教授となり、トロント総合病院で働いていたX線技術者マリオン・ロバートソンと結婚。一児の父となりましたが、その後、離婚。のちの1934年、ジョージ5世によってナイトの称号を与えられた後に再婚しています。これからの活躍が期待されていた若き医師は、世紀の大発見の後のプレッシャーでしょうか、残念なことに私生活も研究も、あまりうまくいっていませんでした。そうこうする間に世の中は第二次世界大戦へと導かれていきます。そこで航空医学と化学細菌戦に関するカナダ初の研究活動を始めたバンティングは、1941年2月、イギリスへと飛び立ちます。ところが悪天候により彼が乗った飛行機はエンジントラブルを起こして墜落。バンティングは帰らぬ人となってしまったのです。

バンティングの銅像と屋敷

大発見をしたフレデリック・バンティング。多くの著名人に見るようにマスコミに書きたてられたり、過大な期待をされたり、その発見は必ずしも彼自身を幸せにするものではなかったのかもしれません。しかし彼の発明が、4億人に至るという世界中の多くの糖尿病患者の命を今日も救っていることは事実です。彼の誕生日である11月14日は世界糖尿病デーとして祝われています。

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