中江兆民 〜東洋のルソーと呼ばれた男〜

中江兆民 〜東洋のルソーと呼ばれた男〜明治時代

1880年代、明治時代の自由民権運動の広がりに貢献した思想家「中江兆民」です。彼は、フランスの啓蒙思想家ジャン=ジャック・ルソーが著した「社会契約論」を翻訳したことでフランス流の自由民権論を広め、自由民権運動の理論的指導者となりました。これらの功績から中江兆民を「東洋のルソー」と呼ばれています。自由民権運動の指導者として活躍するいっぽうで、岩倉使節団の出仕として採用されたり、東京外国語学校の校長を務めるなど優秀な人物として知られています。しかし、性格は破天荒でたびたび奇行をしていたエピソードが残っています。今回の記事では、中江兆民の生涯と人物像をご紹介します。

フランスに影響を受けた中江兆民の生涯

中江兆民は高知城下の山田町(現在の高知市はりまや町)で足軽の子として生まれました。本名は篤介(とくすけ)と言います。土佐藩の藩校・文武館で外国語を学んだことで留学や通訳といった外国と接する機会が増えていきます。中江兆民の生涯について解説していきます。

フランス語の修学・フランス留学

仏学の祖と言われる村上英俊

中江兆民は、1862年に文武館へ入学、1865年には藩が派遣する留学生として長崎に派遣されフランス語を学びます。一説ではこの頃に郷土の先輩である坂本龍馬とも出会っており、坂本龍馬のたばこを買いにいったなどの逸話を残しています。その後江戸に渡り、仏学の祖と言われる村上英俊の達理堂にて修学を続けますが破門され、横浜天主堂の僧にも学んだといいます。

その後、兵庫の開港と同時に上方に赴き、そこでフランス外交官の通訳を務めます。通訳の職を辞した後、日新社の塾頭になるも長続きせず、各地を転々とします。

岩倉使節団主要メンバー

明治4年(1871年)、明治政府が派遣した岩倉使節団には司法省9等出仕として採用されます。大久保利通の後援を得て、使節団の一員としてフランス留学へ旅立ちました。フランス滞在期間は1872年から1874年と約2年、そこではフランスの法律学、史学、哲学を学びながらモンテスキューやルソーなどの作品に触れて自由民権思想の土台を築きます。

仏学塾経営と書記官時代

若き日の中江兆民

フランス留学後は明治7年(1874年)に東京に拠点を移し、仏学塾を設立。塾では語学や思想史だけでなく、漢学も重視するカリキュラムだったと言います。なお、当時の生徒に後に大隈重信を襲撃する来島恒喜が居ます。(※他にも幸徳秋水やフランス人画家のビゴーも在籍していた)

翌年、東京外国語学校の校長として採用されますが教育方針を巡り3カ月で辞職。続いて元老院の書記官として採用され、権少書記官となるも1年半ほどで辞任。このとき、いつもみすぼらしい格好で煎り豆を食べながら勤務していたので「豆食い書記官」と呼ばれていたと言います。

ただこの頃の兆民が携わっていた仕事は国憲案作成のための調査や翻訳を行う仕事であり、とても重要な仕事であったのが分かります。一方で勝海舟や島津久光らと出会い日本の今後についても語り合っています。

宮崎八郎

また、辞任後の年に西南戦争が起きており、元仏学塾塾生であり「九州のルソー」とも呼ばれた宮崎八郎が西郷軍に加わるのを引き止めるも、敢え無く戦死という悲劇にも立っています。

在野時代と自由民権運動の高まり

無官となった兆民は塾経営に専念。一方世間では自由民権運動が活発化し、兆民はフランス留学の際に出会った西園寺公望と共に「東洋自由新聞」を創刊しますが、清華家出身の西園寺が社長であることが物議を醸し廃刊。その翌年の1882年に仏学塾からルソーの「社会契約論」を漢文訳した「民約訳解」を刊行します。

初期の海賊版「社会契約論」

さらに板垣退助、後藤象二郎らが結成したに自由党の結成に関わり「自由新聞」の社説掛となるも、党内で派閥争いが激化したため離党。その後、外相・井上馨の条約改正交渉を巡る大同団結運動に参加し、旧自由党らのメンバーらと積極的に遊説を行います。

しかし、民権運動の拡大を恐れた政府により保安条例が制定され、該当者とされた兆民は東京から追放されてしまいます。これに伴い、経営していた仏学塾も廃塾となってしまいました。

国会議員となる

兆民は多くの奇行で知られている

東京より追放された兆民は大阪へと移転し、明治21年(1888年)に大阪で創刊した『東雲新聞』の主筆も務めます。兆民の記事は大変人気であり、大坂で発行部数1位の大阪朝日新聞を追いやるほどでした。

また、この時の日常着が真っ赤なトルコ帽を被り、「東雲新聞」の文字が入った半纏(はんてん)に股引きといういで立ちだったので大坂では評判の変わり者だったと言います。

大日本帝国憲法発布の図

翌年、明治22年(1889年)には大日本帝国憲法発布の恩赦を得て追放処分が解除。日本全土が憲法発布に浮かれるなか、兆民は「通読一遍、ただ苦笑するのみ」であり、新聞においては「一国狂せるが如しとは今日我が国の光景である」と皮肉をきかせ、日本国民のほとんどが憲法の条文の意味を理解していないことを嘆きます。

政界へ

明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙では自ら本籍を大阪の被差別部落に移し、大阪4区から出馬。被差別部落から出馬した理由に二人目の妻が被差別部落出身であったからと言われてますが、否定されており、経緯としては「新平民」という蔑称で呼ばれる部落民たちの悲痛な叫びを受けて出馬に至ったのがキッカケであると思われます。

正装で登院して驚かれたという

結果として兆民は有権者の3分の2にあたる1,352票を獲得して一位で当選します。さらに、兆民は旧自由党を糾合して立憲自由党を結成。11月に行われた第1回帝国議会に登院し、最大の争点であった「政府予算問題」にて予算削減を要求します。

審議は翌年までもつれ込み、予算削減案は通過するかと思いきや、立憲自由党内から土佐派議員を中心とした裏切り者が出てしまい、予算削減は不同意となり、結果として政府予算案は成立してしまいます。党員の行為に失望した兆民は論説にて国会を「無血虫の陳列場」と非難し、その日のうちに衆議院議員を辞職。辞職届の理由に「アルコール中毒によるもの」と記載したと言います。

その晩年

晩年の中江兆民

議員を辞した兆民は明治24年(1891年)に内地を離れ北海道へと赴き、小樽ににて創刊された「北門新聞」の主筆へと迎えられます。

その他にも材木業を営む「北海道山林組」を設立したり、鉄道事業などにも着手しましたが、大きな成果を上げることはできませんでした。

近衛篤麿※(近衛文麿の実父)

明治31年(1898年)には「国民党」を結成して政界復帰を臨み、近衛篤麿の東亜同文会を中心とした国民同盟会に出席しますが、このころから体調が悪化し喉頭癌が悪化、遂に大坂にてこの世を去ります。享年54歳。

兆民には息子の中江丑吉がおり、跡を継ぎますが昭和17年(1942年)に実子がいないままこの世を去り、中江家は断絶してしまいました。なお、中江丑吉は第二次世界大戦の日独伊三国の敗北は必至であると最後まで嘆いていたと言います。

奇行が多かった?優秀な経歴と正反対の性格

東京外国語の校長、元老院書記官、衆議院議員、実業家と優秀な経歴の数々から中江兆民が才に溢れた優秀な人物であると想像する方は多いと思います。

しかし、輝かしい経歴に反して、中江兆民の奇行や奇談エピソードは多く語られています。兆民死後には「中江兆民奇行談」という本まで出版されています。明らかなフィクションもありますが、これらも織り交ぜて中江兆民の人物像をみていきましょう。

破天荒な性格の持ち主だった

中江兆民の奇談・奇行の中で最も多く語られているのは芸者と関わる際の行動です。芸者と昼遊びを満喫したあと、往来に向けて下半身を露出したり、紙幣を100枚ほどばらまいて芸者たちに拾わせて楽しんでいたり、破天荒なことばかりしていました。

実際にアル中の気があったのかも?

また、酔うと股間を用いて一発芸をしていました。この時代の男性は酔うと裸踊りをする、というのは日常茶飯事ですが、古今問わず一般人からすれば異端児に変わりありませんね(汗)

さいごに

ジャン・ジャック・ルソー

中江兆民は藩校にてフランス語を習得後、通訳経験を経てフランス留学を果たしました。フランス語の修学を継続していたからこそ、ルソーの「社会契約論」を理解でき、漢訳した「民約訳解」も刊行することができました。

また、亡くなる間際に執筆した「一年有休」」や「続一年有休」はベストセラーとなっています。

「左翼の源流」とも呼ばれる兆民ですが、実際は現在「右翼」と呼ばれる人物らとも交流しており、右も左も関係なく、ただ国家と国民のための政治を行うべく活動していたと見るほうが正しいのではないかと思います。

そして兆民死後、彼の自由民権運動の思想はその後の日本にも大きな影響を与えることとなるのです。

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