ジョルジュ・ビゴー 明治日本を見つめたフランス人画家

ジョルジュ・ビゴー 明治日本を見つめたフランス人画家日本史

ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot, 1860年4月7日 – 1927年10月10日)は、フランス人の画家、挿絵画家、漫画家。1882年(明治15年)から1899年(明治32年)にかけて日本に17年間滞在し、当時の日本の世相を伝える多くの絵を残したことで知られる。署名は「美郷」「美好」とも。

日本の義務教育を受け、歴史の教科書を手に取ったことがある人なら一度は見たことがある明治日本の風刺画はこのビゴーによって描かれたものがほとんどです。我々の知るビゴーのイラストの多くは日本を蔑視・批判したようなものが多いため、彼が反日本的な人物と思いがちですが、日本で撮影した写真から見て分かるとおり彼自身は大の親日家でした。彼は日本に滞在した17年間で懸命に働く庶民の姿と美しい景観をつぶさに記録しており、繊細で色鮮やかな作品も多く残しています。彼が描いた風刺画の批判は悪魔で日本の急進的な西欧化であり、日本という国自体には深い愛情を抱いていたことがわかります。今回はそんなちょっと変わったあるフランス人画家の人生を辿っていきたいと思います。

パリに生まれる

パリ市内にバリケードを築くコミューン兵

1860年フランスのパリにて長男として誕生。父親の職業はパリの下級官吏、母親はミニアチュール(綿密画)を手掛ける画家でした。母親の影響を受けビゴーは幼い頃から絵画に携わる生活を送ります。しかし、8歳の時に父親は病死。11歳になるころにはパリにて普仏戦争の講和に反対した一部のパリ市民が武装蜂起し臨時政府を樹立。フランス政府軍との間で「血の一週間」と呼ばれるほどの激しい戦闘がパリにて行われます。(パリ・コミューン蜂起)

ギュスターヴ・クールベ

この激しい「パリ・コミューン」内乱の中、幼いビゴールは母親と妹と逃げ惑いながらも燃え盛るパリ市街や殺戮の様子をスケッチしたと言います。(また余談ですが、この内乱には有名な画家ギュスターヴ・クールベが臨時政府軍として参加しています)

画家を志す

現在のエコール・デ・ボザール国立美術学校

パリ・コミューン内乱が鎮圧された翌年の1872年、ビゴーは歴史あるエコール・デ・ボザール高等美術学校に入学します。在学中はジャン=レオン・ジェロームや肖像画家で知られるカロリュス=デュランの指導を受けデッサンを学んでいきます。1875年頃、19世紀のフランスを代表する版画家フェリックス・ビュオに出会います。当時のフランスでは1867年に行われた第2回万国博覧会の影響もあり、フランス人芸術家の間では日本美術(ジャポニズム)ブームが盛んとなっていました。

フェリックス・ビュオ

フェリックス・ビュオもそんな日本美術に魅了された者の一人で、彼の周りには多くの浮世絵作品があったと言います。ビュオの影響を受けたビゴーも次第に日本美術に興味を抱くようになっていき、ビュオの師事を受けて版画作成に取り組むようになっていきます。

ジャポニズムの起点ともなった富嶽三十六景

その後、1876年に貧しい家系を助けるためビゴーは学校を退学し押絵の仕事を始めます。この押絵の仕事を通してビゴーは小説家エミール・ゾラなどの著名人達との交流を深め、日本に関する知識を深めていくと共に1878年に開催された第3回万国博覧会にて実物の日本絵画を目にし、増々日本への興味を募らせていきます。

日本へ

著名人の押絵の仕事をこなし、フランスで一定の知名度を得たビゴーでしたが極東・日本への思いは募るばかりでした。そして1882年1月、21歳となったビゴーは陸軍大学校で教官を務めていた在日フランス人のプロスペール・フークの伝手を得て、ついに単身日本へと上陸します。

1883年に出版したが画集”アサ”

横浜に下り立ったビゴーは当初画塾を開きますが、フークと陸軍卿・大山巌から画学教師の仕事を紹介してもらい、陸軍士官学校の講師となります。安定した職と報酬を得たビゴーは仕事の合間に東京やその周辺地域に足を運び各地で素描を行うのを日課としました。また、日本の社会を知るため遊郭にも出入りしたそうです。

“アサ”より芸者

この間に日本の庶民の生活をスケッチした画集も自費出版しています。2年後の1884年10月に士官学校講師の契約が切れ、洋画を教える場所を失ってしまうビゴーでしたが、前述した自費出版した画集は外国人居留地に住む人たちから好評だったので幸い困窮することはありませんでした。

フランスの江戸っ子

”東洋のルソー”と言われた中江兆民

1885年頃、改進党系の小新聞「改進新聞」で時事風刺画の押絵などを担当します。
この頃、”東洋のルソー”と称されていた中江兆民と出会い、彼の経営する”仏学塾”にてフランス語を教え、中江兆民の門弟たちと日本の自由民権運動について考えるようになります。
1886年の終わり頃、一時フランスに帰国することを考えますが、海外の新聞社から日本を題材とした西欧ジャーナリズムの報道画家としての職を得たため帰国を延期します。

「クロッキー・ジャポネ」表紙

この間に彼の作品で最も芸術性の高い作品といわれる「クロッキー・ジャポネ」を出版したり、翻訳小説の押絵の仕事を請け負うようになり日本でもある程度の知名度得るようになっていました。巷では「フランスの江戸っ子」とも呼ばれたそうです。

”羽根つき”クロッキー・ジャポネより

またこの頃ビゴーは複数のコマを並べてストーリーに仕立てた漫画の製作にも取り組むようになり、この複数のコマを並べるという形式は現在の日本の漫画のスタイルに影響を与えているとも言われています。翌年の1887年には居留フランス人向けの風刺漫画雑誌「トバエ」を創刊し、日本の政治を題材とする風刺漫画を多数発表します。

「トバエ」創刊号表紙

一方で彼は外国人居留地には住むことはせず、日本の生活を知るため日本人の住む街に居を置き、日本人の生活や情緒を学んでいきます。この時ビゴーは創刊したトバエの中でこのように語っています。

「日本で一番いいもの、それは女性だ。(中略)日本の女性に生まれたのだから、どうぞ日本の女性のままでいてもらいたい」

西欧化を”猿まね”と描いた皮肉絵

一方で庶民の生活を鮮やかに描いている

またビゴーは上流階級の人々は別とし、庶民に関しては極力風刺の少ない絵を描いており、日本の伝統的な文化や庶民の営みには敬意と共感を抱いていたのが分かります。

結婚と日清戦争

明治政府による言論弾圧の風刺画

一方で慎ましく生きる庶民とは裏腹に明治政府はがむしゃらに近代化への道を邁進していました。
明治政府が推し進める急進的な西欧化により自国の伝統を排除していく政府の姿勢にビゴーはしだいに嫌悪感を表わすようになります。このあたりから創刊した「トバエ」内でも政府を批判した内容の風刺画が顕著になり始めたため、次第に明治政府の彼を見る目は厳しいものへと変化していきます。その後も日本各地を転々としながら風刺画の仕事続けるビゴーでしたが、1894年(明治27年)7月に来日初期から世話になった士族・佐野清の三女・佐野マスと結婚。

佐野マス

マスはビゴーより17歳年下で美しい切れ長の瞳を持つ日本美人でした。二人は神楽坂で結婚式をあげると千葉県検見川村稲毛(現・千葉市稲毛区)のアトリエを構えた屋敷にて暮らし始めます。しかし翌月の8月に日清戦争が勃発したためビゴーは、イギリス『ザ・グラフィック』誌の特派員としてこれに従軍、急遽朝鮮半島に出発します。

有名な”魚釣り遊び”の風刺画

この際、日本軍は写真機を持参していたのですが、雨天や激しい戦闘中では使用できなかったため、画家のスケッチは報道としてとても重要であったのです。また日本政府、新聞社たちは従軍画家たちに日本兵の連戦連勝の戦闘場面をスケッチするよう命じますが、ビゴーは一般兵たちの戦地での日常生活を中心にスケッチします。当時の日本メディアが関心を寄せなかったこのビゴーのスケッチは日清戦争の裏側を細かく描いているため現在は貴重な資料となっています。その後、戦争終結後の翌年1895年には日本に帰国し長男・モーリスが誕生しました。

日本を去る

帰国後フランスにて入選する「稲毛海岸」

日清戦争終結後も、ビゴーは日本各地に赴きスケッチを続けます。 1896年(明治29年)6月15日に三陸大津波が発生すると現地に出立し、岩手県大股峠の救助隊の姿を描写。1897年には日本で行われた仮面舞踏会の様子を描き、翌1898年にはお気に入りだった稲毛海岸の様子を油彩画を用いて描きます。この作品は後にフランスのサロンに入選するほどの情緒感あふれた絵画となります。
しかし、創作活動に専念するビゴーとは裏腹に極東の情勢は日々変化していました。

条約改正に尽力した陸奥宗光

東アジアに勢力を拡大するロシアに対抗するため日本はイギリスとの同盟を模索していたのと同時に領事裁判権の完全撤廃に取り組んでいました。条約改正の成功は日本の海外勢からの治外法権の束縛から脱却することを意味しますが、日本在住の外国人からしてみれば不都合この上ない話でした。条約改正が着々と進むに従い、外国人居留地と治外法権が撤廃されることで日本人からの報復を恐れた多くの外国人居留者は自国への帰国を開始します。またビゴーも例外ではなく、政府批判を快く思わない人物からの襲撃、政府からの弾圧は避けられないことを意味していました。

日本の帝国主義台頭を表した風刺画

そして、条約改正1ヶ月前の1899年6月14日、フランス領事館にて妻であるマスとの離婚手続きを終えたビゴーは息子であるモーリスと共にフランスへと帰国します。このときビゴー39歳。17年間滞在した日本との永遠の別れでした。

その後

壮年時のビゴー

フランスに帰国したビゴーはその後、現地の女性と再婚し2人の女子をもうけます。
1900年には第五回パリ万国博覧会の「世界一周パノラマ館」の設計に携わったり、絵画関係の仕事を続けます。また1904年に日露戦争が勃発するとフランスの新聞社「フィガロ」から特派員としての仕事を打診されますがこれを断っています。

日露戦争風刺画

このとき、世論の多くがロシア大勝を予想するなかでビゴーは日本の勝利を断言していたと言います。日露戦争終結後、彼は日本に関する作品を描くことは少なくなりますが、その作品のほとんどがかつての古き良き日本をモチーフにした穏やかな作品ばかりだったと言います。晩年には自宅の庭園に日本から取り寄せた竹を植え、小さな日本式の庭園を造り、日本の着物を着用しながらゆっくり眺めるのを好んだと言われています。

ビゴーがかつて住んでいた東京向島の桜の絵

1927年、67歳となったビゴーはこの大好きな庭園で脳卒中によりこの世を去ります。
葛飾北斎が描いた日本に魅せられ、単身日本を訪れたちょっと変わったフランス人の風刺画は現在も我々が見かける教科書に掲載されています。

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