日本最大の金山 佐渡金山400年の歴史を追う

日本最大の金山 佐渡金山400年の歴史を追う日本史

佐渡金山(さどきんざん)、または佐渡金銀山(さどきんぎんざん)は、新潟県佐渡島にある金鉱山・銀鉱山の総称である。なかでも相川金銀山(あいかわきんぎんざん)の規模が特に大きかったため、単に「佐渡金山」または「佐渡金銀山」という場合、相川のものを指す場合が多い。なお、近代以降を中心に「佐渡鉱山」または「相川鉱山」の名称も用いられている。

佐渡金山は日本最大の金山です。慶長6年(1601年)に山師(山を歩き回り鉱脈を見つける職業)が開山し、平成元年(1989年)に休山するまで多くの金銀が発掘されました。その量、金78トン、銀2330トンにものぼり、金は全て貨幣へ加工され国の財政を大きく支えました。佐渡金山は相川金銀山とも呼ばれ、長きにわたり国が管理してきました。今もなお、長く掘られた坑道跡や水道跡、周囲に点在する金銀の精錬施設、鉱石や石炭を搬出した港などが残り、国の重要文化財に指定されています。今回は2021年現在、世界遺産候補にもなっている日本最大の金山、佐渡金山の歴史について紹介していきます。

佐渡金山について アリの巣のように広がった坑道

日本最大のゴールドラッシュの地

日本最大の金山である佐渡金山は東西に3Km、南北に600m、深さ800mに広がっていました。金銀発掘のために掘られた坑道はアリの巣のように広がり、江戸時代と明治時代で採掘の方法に違いがあります。佐渡金山は山師によって1601年に発見されて開山、1603年に徳川家康が佐渡奉行・大久保長安を置き、幕府直轄の天領としました。江戸時代だけでも金40トン、銀1800トンが発掘され、江戸幕府の財政を大きく支えます。明治時代には西洋技術を取り入れた機械化による採掘が行われ、日本の発展に貢献し続けます。江戸時代に手で掘られた坑道跡、明治時代の爆破やトロッコを用いた坑道跡の2種類からは時代の変遷が見て取れます。日本最大の金山周辺には、発掘された金銀を破砕・選鉱・製錬・搬出した施設も多く点在し、その当時の生産システムが確認できます。

佐渡金山の歴史 江戸時代 ~徳川幕府の財政を支える~

手掘り坑道”宗太夫坑”絵図

日本最大の金山は佐渡郡相川町にあることから、相川金銀山とも呼ばれています。1589年(天正17年)に越後国の戦国大名、上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝は佐渡島を治める本間氏を滅ぼして佐渡を上杉領とします。1594年(文禄3年)には天下人となった豊臣秀吉は大陸出兵のための財政をまかなうため上杉景勝に佐渡島の積極的な開発を命じます。その後、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康の直轄地となると、初代佐渡代官の田中清六は発掘された銀1万を徳川家康に献上。金換算すると現在の価値で200億相当であり、家康は佐渡金山を重要視します。

後に収賄事件が発覚する大久保長安

1603年(慶長8年)、家康は鉱山経営に長けていた側近の大久保長安を佐渡代官として送り込み、佐渡金山だけでなく、相川改革へ当たらせます。金銀が発掘されたことに加えて京町や米屋、味噌屋などの町計画がすすめられたため、多くの人が集まり相川は人口5万人の鉱山町へと発展しました。佐渡金山の採掘に関わる労働者も多く住んでいたとされ、現在もその街並みが残り京町通りと呼ばれています。佐渡金山と奉行所を結ぶ通り沿いに位置し、町屋や社宅が多く立ち並びます。

採掘後の金と銀と水害問題

小判鋳造の絵図

代官となった大久保長安は、石見銀山の技術・経営方法を佐渡金山に取り入れ、鉱山への道路や港の整備をしました。金銀の発掘量はそれまでで一番となり、その貢献によって江戸幕府は金銀を国内自給でき、長期間の鎖国体制が維持できていたとも言われています。採掘後の金銀は、相川で小判へと加工され、小木港より江戸へと運ばれました。幕府はこれらを資金に、政治や貿易に利用していきました。しかし17世紀後半に差し掛かると徐々に質の良い鉱石が少なくなり、金銀の生産が落ち込みます。

様々な経済対策を行った荻原重秀

坑道が深くなるにつれて湧き出てる水問題にも直面し、佐渡奉行の荻原重秀は湧き出た水を日本海へと流そうと疎水坑道の掘削作業を始めます。1691年(元禄4年)からの5年近くをかけ岩盤を手掘りし、全長1.1㎞の南沢疎水道(みなみざわそすいどう)を完成させます。この疎水道により、日本最大の金山は復興を遂げたのでした。

佐渡金山の歴史 明治時代  ~西洋技術による近代化~

現在の大立竪坑跡地

南沢疎水道や排水道具の改良で一度は盛り返す佐渡金銀の発掘ですが、18世紀後半以降、新鉱脈の発見がなく再び衰退を余儀なくされます。そのため国が鉱山経営するようになった1869年の明治初期には、日本最大の金山に機械化・近代化が取り入れられるようになります。また明治政府は西洋人技術者を多く雇用し、イギリス人鉱山技師エラスムス・ガウワーやジェームス・スコットにより、火薬による鉱石の爆破や運搬に便利なトロッコ、西洋の機械類の運転指導を受けます。またアメリカのアレキシス・ジェニンからは、水銀による金銀の製錬方法を学び生産効率をアップさせました。その他垂直な坑道(大立竪坑)をドイツ人アドルフ・レーより学び、大量の鉱石を運び上げることに成功しました。その後は西洋技術を学んだ日本人により引き継がれ、日本最大の金山は発展し続けます。

三菱は現在も金鉱を保有している

佐渡鉱山局長の大島高任は掘削や大間港の建設を手がけ、ドイツの鉱山に留学していた渡辺渡は最新の削岩機や西洋式ポンプ、鉱石や土砂の運搬用のロープウェーを生み出します。1896年には佐渡金山は三菱へ払い下げられ、三菱の経営する鉱山として発展し続けました。20世紀になると、機械の動力が蒸気から電気へと変わり、1908年には北沢火力発電所、1915年には戸地川水力発電所が建設されました。

昭和戦時下の金銀増産から休山となるまで

北沢浮遊選鉱場跡地

日中戦争が始まった1937年(昭和12年)、政府は戦争に必要な物資支払いのため、佐渡鉱山の金銀増産へ乗り出します。それに合わせて大立竪坑のやぐらを木造から鉄骨へ変え、鉱石を砕く粗砕場が新たに建てられます。金生産量を増やすための施設、北沢浮遊選鉱場も建設。施設の補強・増設により金銀の生産量は増え、1940年には年間1,537㎏にもなりました。しかし戦争の激化により、軍事物資に使われる銅や亜鉛、鉛が金銀よりも貴重となり、生産の重きが変わります。戦後再び金銀の生産を始めますが、質の良い鉱石は少なくなっており1952年(昭和27年)に大規模縮小、1989年(平成元年)休山することとなりました。

まとめ

宗太夫坑入口

日本最大の金山、佐渡金山は約400年もの間、金銀の採掘が行われ国の財政を支え続けました。坑道はアリの巣のように広がり、周辺には金銀生産にともなう破砕・選鉱・製錬・搬出施設が点在しています。坑道跡や水道跡、佐渡奉行所などの史跡、5万人が暮らした街並みが現在も残り、鉱山技術や金銀の生産システムは国の重要文化財に指定され世界遺産候補です。現在佐渡金山では、江戸初期開発の手掘り坑道「宗太夫坑」、明治32年開削の「道遊坑」の2種類を散策できます。その他日本最大の金山周辺にある施設見学・世界遺産ツアー(ガイド付)や、上級者向けの山師ツアー(ガイド付)が楽しめ、壮大でロマン満載な佐渡金山に圧倒されるでしょう。興味を持たれた方はぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか?

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