広瀬武夫 【日本初の軍神となった秋山真之の友】

明治時代

日露戦争後、日本人初の軍神と崇められたのが今回紹介する広瀬武夫です。日本海海戦にて活躍した秋山真之の良き先輩でもあり、友人でもあった広瀬は多くの士官たちから親しみを持たれた人格者でした。また、駐在先のロシアでも現地人から気に入られ、ロシア人女性と恋愛関係にまで発展しています。戦死後は明治政府によって戦意高揚のプロパガンダにされてしまったとの見方もありますが、それ以上に素晴らしい人物であったことを今回の記事を通して見ていこうと思います。

生い立ち

武夫の兄である広瀬勝比古

豊後国(大分県)岡藩士・広瀬友之允(重武)の次男として1868年に誕生。幼少時に母親と死別したため、祖母によって育てられるも、西南戦争によって自宅が焼失。父である友之允が飛騨高山にて裁判所所長の職に赴任していたので、幼い武夫は飛騨高山へと移転します。

飛騨に移転後は地元の煥章(かんしょう)小学校に入学。歴史・地理・漢詩が得意で年下への面倒見が良い優等生でした。それもあったのか、小学校卒業後、若干12歳で母校の代用教員として採用されます。

代用教員として数年勤務した後、岐阜華陽中学校へ臨時入学しますが、海軍士官となった兄・広瀬勝比古を追って上京。海軍学校入校のための予備校的存在であった攻玉社に入学し、さらに同時期に柔道の総本山である講道館にも通い心身の鍛錬に励みます。

海軍士官へ

恩師となる八代六郎

1885年(明治18年)海軍兵学校の採用試験に挑みますが、落第してしまいます。しかし、二回目の追加募集の試験に合格したため無事入学を果たします。

在学中は趣味の柔道に没頭。後に秋山真之と出会うキッカケとなる恩師・八代六郎に出会います。また、兵学校の運動会種目であるマラソンに骨膜炎を患ったまま出走したため、左足切断寸前まで悪化してしまいますが、なんとか治癒しています。

1889年(明治22年)に兵学校を卒業しますが、卒業順位はそれほど良くなく80人中64番(49番という説も)という成績でした。理由としては前述の骨膜炎の後遺症に悩まされたからと言われています。

少尉候補生になる

広瀬が乗船した「比叡」

兵学校卒業後、少尉候補生となった広瀬は戦艦「比叡」に乗艦します。またこの時、清水港に寄港した際に、海道一の大親分と呼ばれた清水次郎長に出会い、次郎長が広瀬の凄まじい胆力に驚愕したという逸話があります。

比叡乗船後は、遠洋航海従事のためハワイ・ホノルルまで出航。1891年(明治24年)に正式に少尉となり、半年間だけ戦艦「海門」に乗艦、朝鮮沿海の測量、調査の任務に従事します。その後、再び比叡の士官に戻り豪州遠洋航海に出立し、士官としての経験を積みます。

1892年(明治25年)には内地に帰還し、筑紫分隊士として配属され、故郷の豊後竹田に久々に帰省します。なお、このあたりから広瀬は将来、日本はロシアと戦うだろうと考えるようになり、ロシア語の習得に力を入れるようになります。

日清戦争と秋山真之との出会い

1894年(明治27年)朝鮮半島を巡り、日本と清帝国は遂に開戦。日清戦争と呼ばれる戦いが幕を開けます。広瀬も戦艦「門司」に乗艦し、戦役に参加しますが、もっぱら後方支援の任務だったので、拍子抜けしたそうです。(※一方で兄の勝比古は東郷平八郎指揮下の戦艦「浪速」に乗艦しており、豊島沖海戦に参加している)

清帝国軍艦「鎮遠」

また日清戦争終結後、捕獲した清国の軍艦「鎮遠」の清掃作業の際、大尉に昇進した広瀬は部下たちの模範となるべく率先して便所掃除を行いました。「一番汚れているとこからやるべきだ」と言い、周りの部下たちが止めるのも気にせず黙々と掃除に励んだそうです。この広瀬の行為は後に「爪を以て支那兵の枯糞を掻く」という格言になっています。

秋山真之と出会う

秋山真之

その後、広瀬は軍令部へと出仕し、かつての恩師である八代六郎に出会います。ここで広瀬は八代の紹介で一人の海軍士官と出会います。男の名は秋山真之。後に日本海海戦において名を遺す稀代の名将です。

広瀬と秋山は意気投合すると、四谷で一戸を借りて二人で同棲するほどの仲となり、日夜将来のことについて語り合ったと言います。また、下宿先の人たちによれば「広瀬さんは見た目はおっかないが、話すととても気さくで良い方だった。逆に秋山さんは見た目は大人しそうで小柄であったが、何を考えているのか分からない怖い人だった」とのことです。

ロシアへ

秋山真之との生活も束の間、二人は軍令部諜報部員となり、優秀な士官が欧米視察に派遣されることが決まります。選考の結果、秋山真之はアメリカ、広瀬武夫がロシアへの派遣と決まりますが、派遣されるメンバーの中で広瀬だけが極端に卒業成績が悪かったので、一部の将官たちは疑問を呈します。しかし、広瀬が昔からロシアに関しての研究を続けていた実績を聞くと、これを認承したと言います。(※卒業成績が15期生80人中64番だったのは前述の通り、骨膜炎の後遺症のためと言われている。また、秋山真之は17期生を首席で卒業している。)

こうして、1897年(明治30年)広瀬武夫は念願のロシア留学へと旅立ちます。この時、広瀬30歳。日本の将来を背負う若き将校は北の大地へと足を運びます。

アリアズナ

日本をたった広瀬は海路にてトルコ、パリ経由でモスクワへと入国。最初の一年間は異国の生活に馴染むのと語学の勉強に励みます。その後、ロシアの軍港、施設、国内情勢をつぶさに視察します。1899年(明治32年)には黒海の調査にも赴いています。

そして、この年に広瀬は一人のロシア人女性と運命的な出会いをします。彼女の名はアリアズナ。広瀬が親しくしているロシア海軍大佐のアナトリー・コワリスキー(コワリスカヤ)家の長女です。

アリアズナの絵葉書

「軍人に女は不要」と考える硬派な広瀬とは打って変わり、アリアズナは広瀬に積極的にアプローチを掛けたので、硬派な広瀬も次第に彼女に惹かれるようになっていき、二人は恋仲となります。
愛を育む両人でしたが、時代はそんな二人の思いとは裏腹に、風雲急を告げることとなります。

帰国命令

広瀬は柔道4段の腕前であった

1900年(明治33年)正式にロシア駐在武官となった広瀬は英仏独参加国への視察とバルト海の調査に出立。社交界パーティーにも出席し、関係者たちの前で得意の柔道を披露します。

少佐にも昇進し、ロシアでの生活を謳歌する広瀬でしたが、時代はそれを許しませんでした。

日本とロシアの関係は急速に悪化しており、1901年(明治32年)広瀬に帰国命令が発せられたのです。まさに青天の霹靂でしたが、軍令である以上帰国はやむを得ません。その後、懇意にしていたロシア人関係者たちが広瀬のために送別会を行ってくれました。

ボリス・ヴィリキツキー

この中にボリス・ヴィリキツキーという一人のロシア軍士官が参加しており、彼は「タケニイサン。タケニイサン」と呼ぶほど広瀬を慕っていました。ボリスは広瀬に銅製のグラスを送り、感激した広瀬は「お互い祖国のために戦おう」と涙ながらに語ったそうです。ちなみに、このボリスはその後数奇な運命を送ることになりますが、それはまた別に話になります。

日本帰国

日本帰国の日、広瀬は最愛の人であるアリアズナに別れを告げペテルブルグを出立しました。これが二人の最後の別れになるとは知らずに…。

時期は1月。広瀬は極寒のシベリアを突破すると、ウラジオストク、旅順を経て3月末に無事日本へと帰国を果たします。この時、父の広瀬友之允がこの世を去っていたため故郷の竹田へと足を運んでいます。

広瀬が水雷長を務めた「朝日」

帰省後、広瀬は戦艦「朝日」に配属されると共にロシアでの生活・調査をつぶさに軍令部に報告。1903年(明治36年)には東京の海軍大学校にて海軍軍術に関しての研究を行います。国家の命運をかけた戦いは目前に迫っていました。

日露戦争

現在の旅順港 ※wikipediaより

1904年(明治36年)遂に日露戦争が勃発。連合艦隊は佐世保より出撃し、旅順港閉塞作戦を実施します。旅順港に集結したロシア艦隊を老朽艦を用いて封鎖するという作戦ですが、ロシア側の沿岸砲台の集中砲火を浴びるため大変危険な作戦でした。

広瀬が指揮を執る「報国丸」も作戦に参加しますが、結果は失敗に終わります。これに対し連合艦隊は第二次閉塞作戦を決行。広瀬も「福井丸」に乗船し指揮を執ることになります。この作戦の前後に広瀬は兄の勝比古、恋人アリアズナ、親友の秋山真之、ボリスと言った周りの者たちに手紙を送ったと言われており、決死の覚悟であったことがわかります。

福井丸被弾 そして…

第二次閉塞作戦スケッチ図

3月27日未明、4隻の艦隊は旅順港口に向け突進。一方、ロシア側も警戒態勢を強化しており、砲台及びロシア艦隊から集中砲火を浴びせます。広瀬の福井丸もロシア駆逐艦の魚雷により、大破してしまいます。

総員が脱出する中、広瀬の部下である杉野孫七上等陸曹の姿が見えません。杉野は福井丸自爆のためのために船艙へ降りていたのです。広瀬は杉野を助けるべく単独で船艙へ赴き必死になって叫び続けます。

杉野を探すべく広瀬は単身で福井丸に乗り込む

「杉野!おらんか!? 返事をしろ!」広瀬の再三の呼びかけにも反応はなく、福井丸は沈没の歩みを早めるばかり。もはやこれまでと観念した広瀬はやむを得ず救命ボートの場所へと戻ります。しかし、その時でした…。

ロシア艦が放った砲弾が広瀬の頭部を直撃。即死でした。広瀬の肉片が救命ボートにいた部下たちの顔に降り注いだと言います。享年35歳。

その後

広瀬の死後、連合艦隊は陸軍の協力を経て旅順の攻略に成功。親友・秋山真之らの活躍により日本海海戦にてバルチック艦隊を撃滅し、日本は勝利します。

広瀬の遺体はロシア軍より発見され丁重に埋葬されており、その後、青山霊園に墓石がおかれました。また、恋人のアリアズナは広瀬の死を知ると喪に服したと言います。

広瀬神社 ※wikipediaより

広瀬武夫の活躍を世間は称え、彼に関係のある土地各所に銅像が作られました。1935年には日本初の「軍神」となり、故郷である大分県竹田に広瀬神社が建立されています。

広瀬武夫銅像

多くの部下たちから慕われ、異国の人々から尊敬の念を受けた広瀬武夫。「軍神」以上に「人」として素晴らしい人物であったことは間違いありません。広瀬武夫が備えていたその精神と気骨。現代の我々日本人はもっと知るべきなのかもしれませんね。