シービスケット 【全米を揺るがした奇跡の競走馬】

アメリカ史

1938年、世界大恐慌時代。アメリカ国民が塗炭の苦しみに喘ぐ中、さほど体は大きくなく、どちらかというと不格好とも言える一頭の競走馬が競馬ファンのみならず全アメリカ国民に勇気を与えます。その馬の名はシービスケット…。この馬のオーナー、調教師、そしてふたりの名騎手とこの馬の織り成す奇跡のストーリーを今回はお届けします。

馬の名はシービスケット

「シービスケット」とは船員特に海軍の艦船乗組員の食料としての固パンのことです。祖父の名が古くに軍艦を意味したMan O’War(マンノウォー)であり、父の名がHardtack (ハードタック)、乾パンであったことに由来します。

20世紀最高の名馬の異名を持つマンノウォー

この祖父も父もアメリカを代表する名馬でした。ところがその素晴らしい血統を受け継いでいるはずの1933年5月23日生まれの鹿毛のサラブレッドであるシービスケットはどうも見た目にはなんとも不格好なものでした。

駄馬と見なされる

父であるハードタックは容姿の整った姿であったのに、シービスケットは容姿に優れず、歩き方もおかしい。当時、シービスケットを見た者の感想によればこう書かれています。

『腹が地面につきそうなぐらい低い身体は、コンクリートブロックを思わせた。鈍重で毛づやの悪い名馬の息子には、長身でつややかなハードタックの躍動感のかけらもなかった。尾は悲しくなるほど短く、やっと飛節(後脚のひざ)をこする程度。ずんぐりした脚は不安定な建物を思わせ、野球のグローブにも似た左右非対称の角張ったひざは、どうしても完全にはまっすぐにならず、おかげで若駒はいつも軽くかがみこんでいた。』

※ローラ・ヒレンブランド著「シービスケット あるアメリカ競走馬の伝説 」より

ただ、気性の荒さで知られた祖父や父と違っておとなしく、またよく食べ、よく眠る馬でした。

3人の男たち

シービスケットが駄馬の烙印を押されるなか、彼に導かれるように3人の男たちが姿を現します。

馬主となるハワード、調教師のスミス、そして騎手となるポラード…。

この3人に共通するのは心に大きな傷を負っており、新たな希望を求めて、どこか彷徨っている節があったのです。そして、このくすぶった男三人と駄馬一頭が出会ったとき、アメリカ全土に大きな衝撃が起ころうとしていました。

馬主チャールズ・ハワードと調教師トム・スミス

売却競馬でシービスケットが17連敗という記録を重ねている時のことです。1936年、マサチューセッツ州ボストンのサフォークダウンズ競馬場で運命の出会いがありました。

名調教師スミスがシービスケットに眼をとめたのです。というよりもシービスケットが自分を調教するにふさわしい人間としてスミスを見つけたのかもしれません。

トム・スミスとシービスケット

トム・スミスは元々軍馬の育成を行っていたのですが、終戦と共に軍馬の需要がなくなり、失職。さらに所有していた西部の土地を失い、調教師として各地を転々としていました。そんなとき、カリフォルニアで厩舎を所有し掘り出し物の馬を探しに東部へやって来ていたハワードに雇われたのです。

一方でハワードは自転車修理工から身を立て、カリフォルニアで「ビュイック」などの独占販売権を有する大規模な自動車販売業者となっていた大富豪でした。アメリカンドリームの体現者とも言えるハワードでしたが、事故で三男フランクを亡くし、妻とはそのことが原因で離婚。彼もまた心に傷を負っていたのです。

そんな時に調教師として雇ったトム・スミスによりシービスケットを買うべきだと強く推薦されます。ハワードと新しい妻であるマーセラはシービスケットを気に入ります。シービスケットが持っているハートの強さをスミスもハワードもたちどころに理解したのです。

ハワードとシービスケット

ハワードの厩舎でシービスケットは手厚く飼育されますが、気難しいところを見せます。騎手を選ぶのです。誰が騎乗しても素直に言うことをききません。

そこでスミスはとにかくシービスケットの身体をいたわり、トレーニングにも厳しいことを求めず、好きなように走らせ、休みたければ休ませと自由にさせました。

なんとか言うことをきくようにはなってきましたが、問題は実際のレースで誰を騎乗させるかでした。そんな時に一人の荒くれジョッキーが姿を現します。

騎手ジョン・ポラード

1909年にカナダ・アルバータ州エドモントンに生まれた赤毛の男が1936年8月、デトロイトのハワード厩舎でシービスケットと巡り合います。

彼の名はジョン・ポラード。通称はレッド。不況のため一家は離散し、ポラードは15歳で競馬場に置き去りにされ、天涯孤独の身で騎手になるという経歴の持ち主でした。また、この若者は金のためにボクサーとなり、クーガー・レッド・ポラードと名乗っていましたが、あまり強くはなれませんでした。

一方で騎手となりますとその才能を発揮し、レースで勝利を挙げますが、ある日の調教で悲劇が彼を襲ったのです。横を走っていた馬が蹴った石がポラードの頭に当たってしまいました。しかも運の悪いことに視覚中枢を保護する部分にヒットしてしまったのです。

そのときからポラードは右目の視力を完全に失いました。しかし彼はそのことを誰にも言えません。片目の視力のない騎手の騎乗は認められないからです。崖っぷちのポラードは職を失うことはできなかったのです。

それ以来、成績は低迷し、各地を放浪。雇ってもらえる厩舎を探してデトロイトへたどり着いたのです。調教師スミスは馬の才能を見抜くだけではなく、騎手の能力も鋭く見抜く男でした。スミスはポラードをシービスケットに引き合わせます。

ポラードとシービスケット

実際ポラードは優れた騎乗技術と馬の心を見通す術を持っていました。

『誰も近づこうとすらしない馬を、ポラードは乗りこなした。鞭は極力ひかえ、代わりにあぶみを普通より長くして、すねで優しく馬たちを駆った。馬たちは彼の優しいあつかいに応え、彼がまたがるとリラックスして実力を出し切った。』

※ローラ・ヒレンブランド著「シービスケット あるアメリカ競走馬の伝説 」より

ポラードは初対面のシービスケットに近づくとポケットから角砂糖を取り出しシービスケットに与えました。シービスケットはその角砂糖を食べると、「ありがとう」と言うかの様に顔でポラードの肩に触れたのでした。

シービスケットの初勝利と躍進

ポラードとシービスケットの初コンビの結果は4着。続いての2戦目では3着でしたが、ポラードは手応えを感じていました。

さらに1936年9月7日、デトロイト。フェアグラウンズ競馬場でのレース、州知事杯戦でのことでした。2万8千人の観客と馬主であるハワード夫妻の見守る中、ポラードとシービスケットはレースに臨みます。

レースはシービスケットを含めた4頭の激しい競り合いとなり、わずかなリードで最後の直線に入ったとき、ポラードは腹を鞍にぴたりとつけ、シービスケットにささやきました。「行け!」
シービスケットはさらに加速します。

ポラードはシービスケットの肩甲骨の盛り上がった部分に胸を当て、左手に手綱、右手は首に押しつけて後ろを振り返り2位につけている馬の眉間を見つめていました。シービスケットはそのままゴールイン、ポラードとシービスケットは遂に初勝利を手にしました。

このレースでシービスケットは勝利への執着、勝つことの快感を会得したのです。

西海岸

1936年11月、ハワード厩舎の馬たちはハワードの本拠地であるカリフォルニア、サンフランシスコへ戻りました。またシービスケットも出場したレースでことごとく好タイムを叩き出し勝利を重ねます。

サンタアニタパーク競馬場 ※wikipediaより

そして1937年2月27日、サンタアニタパーク競馬場での「10万レース」といわれていた、賞金総額が世界最高の10万ドルの大レース、サンタアニタハンディキャップ戦に出場します。馬主ハワードが是非とも勝ち取りたいと考えていたレースでした。

6万人の観衆で埋め尽くされたスタンドの大声援を受けて、シービスケットと有力馬ローズモントを含む18頭が出走ゲートに入りました。ローズモントは三冠馬オマハを破ったことでしられていますし、また前週のサンアントニオハンディキャップ戦では優勝しています。ラジオで実況生中継されていたこのレース、数百万人がラジオの前にいたのでしょう。

レースは激戦、最後の直線で、予想通りシービスケットとローズモントの一騎討ちとなりました。リードしているのはシービスケットです。その差1馬身。

「ベイビー、もっと速く!」ローズモント騎乗のハリー・リチャーズはあらん限りの声をはりあげてローズモントを鼓舞し脚で蹴りを入れそして鞭を当てました。差が縮まってくる。しかしポラードは反応してこない。万全のリードがあるかのように悠々としているのです。もちろんシービスケットに鞭を入れることもありません。

実はこのときポラードは油断してしまったのです。大歓声で後ろのローズモントの蹄の音は聞こえない、そして右目の視力を失っているせいでわずかに右後方から近づいているローズモントを視覚でとらえられなかったのです。またシービスケットも遮眼帯をしているので後方は見えていません。

現在のサンタアニタ競馬場レース場内

ついにローズモントはシービスケットを捉えました。そして両者はほとんど同時に決勝線を駆けぬけたのでした。写真判定の結果はローズモントの勝利となりました。

レース後、馬主ハワードはポラードに問います。

あくまでも穏やかな口調でした。ポラードは、見えていませんでした、とは言えなかったのです。右目が見えないことはなにがあっても隠さなければならないのですから。

「シービスケットのレーンは馬場が重く右に出たかったがローズモントの進路妨害となるのでできなかった」と言ったのです。

ハワードもスミスもこの説明を受け入れました。しかし、6万の観衆と数百万のラジオ聴取者はポラードを怠慢と批難し続けたのでした。

シービスケットはこの敗戦の悔しさを晴らすかのように、次に出場した3レースで圧倒的な強さを見せ勝ち続けました。そしてローズモントへ挑戦状を叩き付け東部へ旅立ちました。

東海岸

1937年6月26日、ニューヨーク、ブルックリン競馬場にて2万人の観衆を前にシービスケットはローズモント、さらには地元の人気馬アネロイドに挑みました。ブルックリンハンデキャップ戦です。

このレースではローズモントは第3コーナーでトップ争いから脱落、ゴール前ではシービスケットとアネロイドの一騎討ちとなりましたが、シービスケットがゴール直前でかわして優勝したのでした。

誰もが認める名馬となったシービスケット

このレース結果によって、シービスケットのことを「飾り立てられた駄馬」といっていた東部の競馬ファンはぐうの音もでなくなったようです。

シービスケットはその年はその後も東海岸のレースに出続け、8戦6勝とすばらしい結果を残しました。

再び西海岸へ、そして新しい騎手ジョージ・ウルフ

翌年、1938年、シービスケットらは西海岸に戻りましたが、ポラードが悲劇に見舞われます。2月19日、シービスケットが出走を回避した重馬場のレースで、同じ厩舎のフェアナイテスに騎乗したのですが接触事故がおき、落馬したポラードは重傷を負ってしまいました。脳震盪、骨折、内臓損傷。少なくとも1年間は騎乗できないとされてしまいました。

誰をシービスケットの新たな騎手とするか。難しい問題でしたが、ポラードの旧友であり、1935年の記念すべき第一回サンタアニタハンディキャップ戦の優勝ジョッキーであるジョージ・ウルフがつれて来られました。冷静沈着な態度からアイスマンと呼ばれていた男です。糖尿病の持病がありながらも当時のトップ騎手のひとりとして名をはせていたのです。

ウルフとシービスケット

そして3月5日、前年に悔しい思いをしたサンタアニタハンディキャップ戦です。このレースではアイスマンは思いもよらない敵を相手にしなければなりませんでした。まずはスタート直後に襲ってきたルール違反です。右からジョニー・アダムズ騎乗のカウントアトラスが体当たりを仕掛けてきたのです。そして100メートルに渡ってシービスケットに接触し続けました。アイスマンは鞭を振り上げ、ジョニー・アダムズを強打しました。カウントアトラスはやっと離れていきます。

しかしすでに先頭とは8馬身差となってしまいました。シービスケットは負けてはいません。アイスマンの指示通りにスピードを上げ、ライバルとされていたステージハンドに追いつきます。ステージハンドの騎手は白いキャップでしたからよく分かります。第3コーナーでトップに立ちました。

ゴール前2頭は並びそのままゴールしました。写真判定の結果はステージハンドの勝利でした。因縁のこのレースでまたもシービスケットは勝てませんでした。さらに理不尽なことにアダムズを鞭で打ったアイスマンは騎乗停止となり、不当なレースをおこなったアダムズにはなんのお咎めもありませんでした。

世紀のマッチレース

1934年5月2日、シービスケットの祖父であるマンノウォーに新たな子どもが生まれていました。ウォーアドミラル(海軍大将)です。体はそれほど大きくありませんでしたが、マンノウォー譲りの火のような激しい気性の馬でした。ウォーアドミラルはニューヨークなどの東海岸のレースで活躍します。

ウォーアドミラルのイラスト

1937年には史上4頭目の三冠馬となり、圧倒的な強さを誇る馬となっていました。そうなると、西海岸から全米に名を馳せているシービスケットと東海岸で活躍するウォーアドミラルのどちらが強いのか決着をつけなければならなくなりました。

マッチレースの企画がいくつかの競馬場から提示されましたがなかなか両者の折り合いがつきません。しかしとうとう、メリーランド州ボルチモアのピムリコ競馬場支配人の努力で、1938年11月1日火曜日にマッチレースが行われることとなったのです。10月5日にレースの開催が発表されたのですが、それからが大変でした。

『それから1か月、アメリカはずっと熱狂の渦中にあった。ことあるごとにウォーアドミラルとシービスケットの名前が口にされ、2頭に関する記事があらゆる新聞に載った。それぞれのファンは激しい対抗意識を燃やし、やがてそれは東海岸対西海岸の熱狂的な諍いへとエスカレートしていった。・・・・・生まれてこのかた一度も競馬を見たことのないような人々までが、自分はこっちだ、などといいはじめている。・・・・・南北戦争ならぬ東西戦争が勃発しかねない』

※ローラ・ヒレンブランド著「シービスケット あるアメリカ競走馬の伝説 」より

レースの当日がやって来ました。ピムリコ競馬場は収容人員1万6千人という規模です。平日の火曜日ならば充分収まるだろうと考えられましたが、とんでもないことになりました。

早々に観客席は満員、入りきれないファンをレースコースの内側の柵内に誘導します。なんとか総勢4万人を収容しましたが、さらに1万人を超える人々が競馬場を取り囲んでいました。

いよいよスタートです。事前の予想を裏切り、なんとシービスケットがリードしました。シービスケット騎乗のアイスマンは後を見てウォーアドミラル騎乗のチャーリー・カートシンガーを挑発します。

”世紀の対決”はシービスケットに軍配が上がった

両馬ともに全速力で走ります。ほとんど並んで最後の直線に入りました。4万人の大歓声がこだましています。アイスマンは右に並走しているウォーアドミラルの顔を見ました。舌が口の横から出ています。バテているのです。

アイスマンはシービスケットに「さあ行け!」と告げました。シービスケットは一気に加速、ウォーアドミラルはついていけません。4馬身差をつけての大勝利でした。

因縁のレース

2年後、1940年3月2日、7歳となっていたシービスケットはサンタアニタハンディキャップ戦に出場しました。オーナーのハワードは2度も不運な2着となっていたこのレースを勝ってシービスケットの花道としたかったのです。

およそ1年前のレースで左前脚を痛めてしまい、その後1年間の治療とリハビリのあとでした。

騎乗はかつてのパートナー、大怪我から復帰したポラードです。サンタアニタ競馬場にはおよそ8万人の観衆が詰めかけ、記者席を世界中からの報道陣が埋めています。

調教師スミスはシービスケットに鞍を乗せるとポラードに言いました。

『無事にゴールさせてくれよ』

遂にサンタアニタを制したシービスケット

大歓声の中、スタートです。レースは早いペースで進みました。第3コーナーを回ってシービスケットは3位、前方を2頭の馬が塞いでいて前に出られません。そのときその前の2頭が接触し反動で、すき間が開きました。大声で祈りを唱えていたポラードはそのすき間を見てシービスケットに命じました。

『今だ、行くぞ!』

一気に追い抜くとあとはシービスケットの独走でした。追撃する馬を寄せ付けずゴールイン、見事な勝利でした。生涯33勝の最後の勝利となりました。

おわりに

サンタアニタのシービスケット像

レースを引退したシービスケットはハワードのリッジウッド牧場で種牡馬として余生を過ごし、そして1947年5月17日、心臓麻痺で14年の生涯を終えました。またハワードの意向により、シービスケットの墓の場所はハワード家の者だけが知る秘密とされました。

ハワードはその4年後1951年に74歳で亡くなり、スミスは別の厩舎に移り活躍しますが、1957年に亡くなっています。

アイスマンは1942年にアメリカクラシック三冠を達成しますが、糖尿病の悪化と落馬事故により1946年に35歳という若さで亡くなってしまいました。

リッジウッド牧場のシービスケット像

そしてポラードは1981年に72歳でこの世を去りました。死亡の翌年、ポラードはカナダ競馬名誉の殿堂入りを果たしています。

全米に夢を見せてくれた馬と人々の奇跡の物語でした。