ハワイ王国最後の王位継承者 プリンセス・カイウラニ

ハワイ王国最後の王位継承者 プリンセス・カイウラニアメリカ史

カイウラニ(全名:ヴィクトリア・カウェキウ・ルナリオ・カラニヌイアヒラパラパ・カイウラニ・クレゴーン, 1875年10月16日 – 1899年5月6日)は、ハワイ王国の王女。生後すぐにカラカウア家へ養女に出され、早くからハワイ王家の次世代後継者と目されていた。

日本人の人気海外旅行先といえばハワイですが、かつてはアメリカ領ではなくハワイ王国として隆盛を誇っていました。しかし近代に差し掛かると太平洋にまで勢力を拡大するアメリカには対抗できず対米従属を余儀なくされます。そして1893年1月17日、ハワイ王国はアメリカ系住民により崩壊させられることとなり、わずか100年足らずでハワイ王国は消滅への道を歩むこととなります。今回紹介するカイウラニはそんな激動のハワイ王国最後の継承者として短くも悲しい運命を辿ることとなります。美しくも儚いハワイ王国最後のプリンセスの生涯とは果たしていったいどんなものだったのかをみなさんと一緒に追っていこうと思います。

ハワイ王国

カメハメハ1世

長く戦乱の世が続いたハワイ諸島をカメハメハ大王が統一して、ハワイ王国を建国したのは1795年のことです。このとき日本は江戸時代、寛政7年にあたります。マウイ島の王・カヘキリが死去したことを契機にカメハメハはカウアイ島、ニイハウ島を除く島々を配下に置くことに成功します。

ハワイ島統一前勢力図(ニイハウ島は除く)

カウアイ島とニイハウ島は1810年にカウアイ島の王・カウムアリイとの話し合いによってハワイ王国の島とすることが叶い、名実ともにカメハメハはハワイ諸島統一を成し遂げたのでした。
以来カメハメハ大王の直系の子、孫で大王を含め5人の王が約77年間ハワイ王国を治めました。
カメハメハ5世が次期王を指名せずに亡くなったため、6番目の王となったのはカメハメハ大王の遠縁にあたるルナリロでハワイ王国において初めて選挙で選ばれた王となりました。

後に明治天皇と会見するカラカウア王

しかしルナリロ王は在位わずか1年で亡くなり、ルナリロ王も次期王を指名しておらず再び選挙が行われ7番目の王となったのがカラカウアです。カラカウア王は弟のレレイオホクを次期王として指名していましたが亡くなってしまったため、妹のリリウオカラニが王位継承者となりました。
子供がいなかったカラカウア王夫妻はカラカウア王のもう一人の妹・リケリケの子供をハナイ(養子)とすることを決めていました。それがプリンセス・カイウラニです。
また、ハワイ王国はカメハメハ大王が亡くなった翌年・1820年にはアメリカの宣教師の来島により急速にキリスト教が広まっており、ハワイ王国に動乱の予兆が現れ始めていました。

プリンセス・カイウラニの血筋

アーチボルド・クレグホーン

プリンセス・カイウラニの父親はアーチボルト・クレグホーンというイギリス人。
母親はハワイ王国7番目の王・カラカウアを兄に、8番目の王であり唯一の女王・リリウオカラニを姉に持つカラカウア家の王女・リケリケ。カラカウア家はカメハメハ家との血の繋がりは希薄でした。王国当時はいかにカメハメハ大王と血の繋がりが濃いかを主張し、それが高貴であることの証とされていたようです。しかしカメハメハ大王がハワイ諸島を統一する際の重臣がカラカウア家の先祖であり、ハワイ王家の紋章のモデルとなっています。

リケリケ王女

カイウラニの父・アーチボルト・クレグホーンは父とともにホノルルを訪れそのままハワイで暮らし始めました。アーチボルトが16歳の時のことです。その後、彼は父が始めた商店を引き継ぎオアフ島だけにとどまらず他の島まで広げるほどに成功させます。35歳になったアーチボルトは19歳のリケリケと結婚。しかしその時すでに内妻との間に3人の娘がいました。
アーチボルトとリケリケは16才も年が離れていた上に、不在がちだった夫に妻は不満を抱き、夫婦仲が円満とはいえなかったようです。

幼少期

幼少期のカイウラニ

1876年10月16日、プリンセス・カイウラニはホノルルで生まれました。
カイウラニとは「高貴で神聖な人」を意味し、母・リケリケが名付けました。
現在、ワイキキにあるプリンセスカイウラニホテルが建つ場所はアイナハウと呼ばれ、カイウラニが幼い頃から暮らした場所です。アイナハウの広大な敷地は造園を得意とした父・アーチボルトによって外国から取り寄せられた木々が枝を伸ばし、美しい南国の花々が咲きほこり、カイウラニが可愛がっていた孔雀が遊ぶ天国のような場所でした。

父アーチボルドとカイウラニ

カイウラニは馬に乗りダイヤモンドヘッドへ出かけたり、サーフィンを楽しんだりと活発な少女だったようです。しかし、カイウラニの無邪気な少女時代は母の死により終わりを迎えます。カイウラニが11歳の時に母・リケリケが36歳の若さで亡くなってしまいます。そんな時にカイウラニの傷ついた幼い心を癒す人物との出会いがありました。イギリス人の作家・スティーブンソンです。

ロバート・L・スティーヴンソン

スティーブンソンは「宝島」や「ジギル博士とハイド氏」をはじめ、ハワイに立ち寄ってからはポリネシアの伝承を元にした小説も書き上げた人気作家でした。スティーブンソンはハワイ滞在中にアイナハウを訪れカイウラニと過ごします。彼はカイウラニに詩を贈ったり、故郷であるイギリスのことを語りました。

おてんばだったカイウラニ

カイウラニはスティーブンソンと過ごした時間を生涯忘れることはなく、時には大切な思い出として懐かしく思い出し、時にはスティーブンソンの詩に励まされ、孤独な日々を乗り越えていったのでした。

ハワイを離れて

成長したカイウラニ

カイウラニの母の死から2年後、13歳になったカイウラニに叔父であるカラカウア王が海外留学を用意します。行き先は父の故郷であり、大好きなスティーブンソンの祖国でもあるイギリス。
不安がないはずはなく、ハワイを離れがたい気持ちが溢れるカイウラニでしたがプリンセスとして、未来の女王として叔父王の申し出に笑顔で応えました。そして1889年5月10日、1年間の留学の予定でカイウラニはハワイを出発。太平洋を船で渡りカリフォルニアへ。そこからは汽車でアメリカ大陸を横断し、ニューヨークからまた船に乗りイギリスを目指しました。カイウラニがイギリスに到着したのは6月17日、リバープール。そして翌日ロンドンへ。

10代頃?の写真

ニューヨークでもカルチャーショックを受けたカイウラニでしたがロンドンはその比ではありませんでした。華やかで洗練された大都会、ロンドン。学校が始まるまでの短い時間、ロンドン観光を楽しんだのでした。この留学に対して叔父・カラカウア王にはふたつの思惑がありました。
ひとつはカイウラニにプリンセスとしての教養を身につけさせること、もうひとつはカイウラニをハワイから遠ざけること。当時、ハワイ王国は財政難を始め様々な問題に直面していて王位継承権を持つカイウラニの身に危険が及ぶ可能性があったからです。                                                                                                                                                                                          1878年、かつてカラカウア王の妻・カピオラニ王妃とリリウオカラニはヴィクトリア女王の即位50年の式典に列席するためイギリスヘ旅したことがありました。

ハワイ動乱

自警団から発足したホノルルライフルズ

その旅の間にカラカウア王はアメリカ系住民により結成されたホノルルライフルズのメンバーによってハワイ人や東洋人には参政権のない憲法に半ば力ずくで署名させらてれてしまいました。(この時カラカウア王が署名させられた憲法は「銃剣憲法」と呼ばれています)
この時、自らの命の危険を感じたカラカウア王は姪の身の安全を真剣に考えたのでしょう。

「アロハ・オエ」で有名な女王リリウオカラニ

カイウラニの海外生活は当初の予定を大幅に上回り8年に及びました。その間、カラカウア王は体調を崩して療養先のサンフランシスコで亡くなり、1891年1月、その後を継いでリリウオカラニが即位しました。カイウラニはリリウオカラニ女王に帰国の許可を願い出ますが女王はなかなか首を縦に振りませんでした。不安定な国情を危惧してのことなのか、それとも幼い頃から人気のあったカイウラニを女王にという内外の期待を知り自らが王座を追われることを案じてのことなのか、リリウオカラニ女王はカイウラニをハワイから遠く離れた場所に置いたままハワイへの帰国を認めませんでした。そして迎えた1893年1月17日、アメリカ合衆国と関連の深いサトウキビを扱う業者らがさらに親米的な政権を打ち立てるため反王国派と結託しクーデターが勃発。(ハワイ事変・ハワイ革命)激しい戦闘の結果、遂にハワイ王国は滅亡。そして女王退位。

事件に関与したサンフォード・B・ドール

この時カイウラニはイギリスにいて、彼女宛に届いた電報で王国転覆を知り衝撃を受けます。
この時のプリンセスの決断は早いものでした。彼女はロンドンの新聞に声明文を載せ、自身は急ぎワシントンへ向かいます。途中、ニューヨークでは声明文を読み上げ、カイウラニは一躍時の人となりました。プリンセスのハワイへの思い、行動力は世論に高く評価されたのです。
そしてワシントンに到着すると、就任したばかりのグロバー・クリーブランド大統領との面会が実現しました。クリーブランド大統領は2回目の大統領就任で前政権時にカピオラニ王妃とリリウオカラニ女王と面識のある人物でした。

イギリス帰国時のカイウラニ

クリーブランドはハワイ王国の転覆について「正当であったか調べる」とのプリンセスとの約束を守り調査を開始します。結果、ハワイ併合案は取り下げられることとなりました。
しかし、これをハワイを占拠していた暫定政府は内政干渉とし認めず、王国転覆の翌年、ハワイ共和国が成立してしまいます。
また、女王であったリリウオカラニも反逆罪で逮捕されイオラニ宮殿に8ヶ月もの間幽閉されることとなってしまいました。

故郷ハワイへ

ドレス姿のカイウラニの横顔

ハワイ王国滅亡、女王逮捕、幽閉。そしてカイウラニは未だハワイへ帰ることができない。
そんな日々の中、カイウラニはイギリスでの後見人一家とドイツを旅します。彼女はそこで出会った男性にプロポーズされますが、祖国が亡くなってしまってもまだ彼女はプリンセスでした。
国や国民を無視して結婚することができない立場の彼女は叔母のリリウオカラニに手紙を書きますがその返事は思いがけない内容でした。そこには叔母の望むカイウラニの結婚相手の名前が記されていたのです。

結婚相手候補だった東伏見宮依仁親王

カイウラニの従兄弟・カワナナコアの名前は予想していたのものですが、日本のプリンスコマツの名前には驚くどころかなぜという疑問が湧くばかりでした。かつて1881年にカラカウア王が世界一周の旅で立ち寄った日本。日本との同盟を望んでいたカラカウア王はその時まだ6歳だったカイウラニと日本の皇族との縁談を明治天皇に申し出ていたのでした。
前例がないという理由で日本側はこの縁談を断ったのでしたが、その後もカラカウア王は諦めきれなかったのか、成長したカイウラニに日本の着物を着せて写真を撮り日本に送っていました。

和服姿のカイウラニ

実際、美しい彼女に想いを寄せた人はたくさんいたようです。カイウラニも友情以上のものを感じた相手がたくさんいたことでしょう。しかし、カイウラニは一女性である前にハワイ王国のプリンセスだったのです。自分の幸せよりハワイのためにできることをハワイの人々とともに、そう願い続けていたのです。そして1897年、ついにカイウラニはハワイへ戻りました。13歳だったあどけない少女は美しく聡明な22歳の女性へと成長していました。翌年の1898年、ハワイは正式にアメリカに併合され星条旗が掲揚されました。併合の式典にリリウオカラニとともにカイウラニも招待されていましたが彼女は出席しませんでした。

その後

あまりにも短い一生でした…

その年の12月、知人の結婚式に参列するためカイウラニはハワイ島へ出掛けます。
久しぶりに楽しい時間となったハワイ島滞在でしたが、カイウラニは乗馬中に悪天候に見舞われ体調を崩してしまいました。病に倒れたカイウラニを迎えに来た父アーチボルトと共ににホノルルの大好きな我が家・アイナハウに戻ってきましたが、カイウラニは回復することなく息を引き取ります。ヴィクトリア・カイウラニ。
1899年3月6日、23歳5ヶ月の短い生涯を閉じたハワイ王国最後のプリンセスでした。

おわりに

ホテルに飾られている肖像画

歴史に”もしも”はないのですが、もし彼女が日本の皇室と結ばれていたらどうなっていたのだろうかと思わずにいられません。また、いつの時代も歴史に翻弄された女性の運命には辛い感情がこみ上げてきます。現在ハワイのホノルル市には彼女の名を冠した高級ホテル「シェラトン・プリンセス・カイウラニ」が建設されており、日本人向けのサービスが充実しているため多くの日本人旅行客が利用しているとのことです。なかなか海外旅行が難しい昨今ではありますが、この記事からかつてのハワイ王朝の息吹と彼女の生涯を思い出し、いつかハワイを訪れていただければ幸いかなと思う次第であります。

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