グレート・ホワイト・フリート ~白船来航と明治日本~

グレート・ホワイト・フリート ~白船来航と明治日本~アメリカ史

グレート・ホワイト・フリートGreat White Fleet)は、1907年12月16日から1909年2月22日にかけて世界一周航海を行ったアメリカ海軍大西洋艦隊の名称。「GWF」と略されることもあり、また「白い大艦隊」「白船」と訳されることもある。

幕末に来航したペリー率いる「黒船」は有名ですが明治時代末期に来航した「白船」に関してはあまり知られていません。当時アメリカは太平洋を重要視しておらず配備されていたのは巡洋艦一隻だけでしたが、日本が日露戦争にて勝利すると太平洋上のミリタリーバランスは一変し、アメリカは早急に新型艦隊の増産に着手し始めます。そして建造された16隻の戦艦はアメリカの海軍力を誇示すべく太平洋を横断し世界一周の航海を宣言します。このとき日露戦争にて疲弊していた明治政府はどのように彼らに対応したのか?また世界各国の反応はどのようなものだったのかに迫ります。

艦隊建造の経緯

1905年、日露戦争にて日本が日本海海戦にてロシア艦隊を撃滅すると太平洋上には日本海軍だけが突出する状態となり、アメリカはこの状況に脅威を感じます。また当時アメリカと日本の間では中国の権益をめぐって対立しており、日米関係は緊張状態となっていました。
このような状況下の中アメリカは急ピッチで戦艦の増産を行い、1907年までには11隻の戦艦を新造しており、この海軍力を世界に誇示する機会を窺っていました。

日本に脅威を抱いたルーズベルト

そして翌1908年3月、突如アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは新造艦で編成された16隻の艦隊に演習を兼ねた世界一周の航海を世間に発表します。

旗艦・コチカネット

この発表は直前まで秘密にされていたためこの発表を聞いたアメリカ市民は大いに驚いたそうです。また16隻の戦艦は真っ白に塗装されていたため「グレート・ホワイト・フリート」と呼ばれるようなります。

出航

ハンプトン・ローズを出港する艦隊

1908年12月16日、ルーズベルト大統領をはじめとする大勢の見物人の見送る中、バージニア州のハンプトン・ローズを出港。第一航海では南米方面へと進路を取り、南米の主な都市に寄港しますが、ブラジルの首都リオデジャネイロに寄った際は艦隊の水兵と港湾作業者の間で大規模な乱闘が発生。また同地で無政府主義者による爆破テロが行われるとの情報が流れたため一時騒然としますが、後にデマと分かり無事にリオデジャネイロを出港します。

航海中の白船艦隊

その後、難所と言われたマゼラン海峡をチリ海軍の協力を得て無事に通過し、4月にアメリカの西海岸のサンディエゴ、ロサンゼルスに到着。5月6日にはサンフランシスコに入港し市民の大歓迎を受け無事に第一航海を終えます。この時に艦隊司令官はロブリー・D・エヴァンズ少将は航海中に痛風で苦しんでいたため、サンフランシスコでチャールズ・S・スペリー少将に司令官を交代しています。

日本寄港と各国の反応

招待を打診した斎藤実海軍大臣

1908年7月7日、サンフランシスコを出航した艦隊は7月にハワイに入港。8月にオーストラリアのシドニーに入港し大歓迎を受けた後、10月にはフィリピンのマニラに寄港し進路を日本へと進めました。日本側はアメリカ艦隊が初出航した3月には日本への招待を打診しており、どのように対応すべきか協議が重ねられていました。向かってくるアメリカ艦隊はすべて新造艦であり、数も日本が保有する艦隊の約2倍という状況であったため日本に戦うことなど不可能でした。

稲垣満次郎駐スペイン公使

しかし、この状況を見た世界各国は日米対戦間近と騒ぎ立てます。この時、駐フランス大使の栗野慎一郎は「フランスの新聞は日米戦争不可避と書き、日本の外債は暴落した」と伝え、また駐スペイン公使の稲垣満次郎は「スペインの貴族や資本家から軍資金の提供の申し出があった」(スペインは米西戦争に敗北直後)と日本政府に連絡しています。またアメリカの新聞も右派系を中心として連日に渡り、日本との戦争不可避と伝えます。

白船大歓迎

10月18日、遂にアメリカ艦隊は横浜へ寄港します。セオドア・ルーズベルト大統領も「日本艦隊との交戦の可能性は1割ほど捨てきれない」と述懐しており、アメリカ側に緊張が走っていました。
しかし、アメリカ艦隊は思わぬ肩透かしを食らうことになります。アメリカ側の予想に反して日本はこの寄港を国を挙げて大歓迎したのです。

「米国歓待接待次第」手引書

この歓迎はすさまじく、横浜市民は歓迎の花火を約2400発近くを打ち上げ、横浜市内の繁華街は歓迎門や提灯飾りを作るなどの趣向を凝らしてアメリカ側を歓迎します。また艦隊の乗組員の上陸が許可されると横浜市内の全小学生が動員され、男子生徒は日米両国の小旗を振り、女子生徒は菊の花束を持ちつつ咽喉も破れよと万歳三唱を連呼したと言います。

歓迎する横浜市

翌日、乗組員一行は鉄道で東京へと向かうと新橋駅のホームは一千名の小学生であふれんばかりで、一行の汽車が到着するといっせいに「星条旗よ永遠なれ」を歌い一行を迎えます。

当時の銀座周辺の様子

その後も艦隊を率いる将校は連日に渡る園遊会、晩餐会に招待され、当時、海軍軍令部長だった東郷平八郎大将も戦艦三笠の艦上で歓迎会を催しています。またこの時、後に太平洋戦争で司令長官になる若き日のチェスター・ニミッツと第3艦隊司令長官となるウィリアム・ハルゼーが東郷平八郎の胴上げに参加しており、後の第5艦隊司令長官となるレイモンド・スプルーアンスも少尉候補生でガーデン・パーティーに参加し東郷平八郎を見ています。

その後

艦隊の帰還を喜ぶ風刺画(左からアンクルサム、ジョージワシントン、ルーズベルト)

こうして歓迎ムードのなか10月25日に艦隊は横浜を出航し、翌1909年2月に艦隊は大西洋を横断しハンプトン・ローズに到着。14ヶ月という長き世界一周の航海を無事終えました。
しかし日本側としてはアメリカの脅威を見せつけられたことに変わりはなく、白船艦隊が日本を去った2週間後日本の連合艦隊は、九州の東南沖で大演習を行ったといいます。

帰還した水兵のイラスト

当時の日本は海軍力5位という地位にありながら、アメリカには太刀打ちできず卑屈なまでの迎合作戦でこの場を切り抜けねばならなかった背景を思うと大変屈辱的なものであったとは思います。しかし戦争回避のため一芝居打ち見事この局面を切る抜けたことを考えると当時の日本政府はなかなかの外交的手腕だったのではないでしょうか。また白船来航から約半世紀後に日本はアメリカとの太平洋戦争へと突入していくわけですが、日本とアメリカはペリー来航以来「摩擦と協調」を繰り返してきていることを考えると筆者の「いずれ戦う運命にあったのでは…」と考えてしまうのは間違っているのでしょうか…。

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