貝原益軒 【日本のアリストテレスと評された医学者】

貝原益軒 【日本のアリストテレスと評された医学者】江戸時代

古代ギリシャの哲学者として名が知れるアリストテレス。その日本版のようだと、幕末にオランダから来日した医師シーボルトに、貝原益軒(かいばらえきけん)は評されます。江戸時代の医学者“貝原益軒”は福岡の黒田藩へ仕え、藩の歴史や博多の概要を記した書物、薬物学・学問・健康などの書物を著しました。生前においてもその名は知られていましたが、死後、和文でわかりやすい教訓書は多くの人々に読まれさらに有名になったと言われています。

著書を出すまでの生い立ち

貝原益軒

福岡藩士であり学者でもあった江戸時代の医学者”貝原益軒”が、多くの書物を手がけるまでの生い立ちについてです。若いころから勉強熱心で、正しいと思ったことは遠慮せずやるという性分だったと言われています。

神童と呼ばれる

黒田家家紋

寛永7年(1630年)筑前国(福岡県)にて生まれます。5人兄弟の末っ子として、黒田藩(福岡藩)に祐筆役(秘書役)として仕える父・寛斎のもとで育ちました。通称は助三郎、後に久兵衛。母親とは6歳の時に死別してしまいますが、兄弟たちが面倒を良く見てくれていたそうです。

子供のころから利発で周囲から神童と呼ばれていました。逸話として、益軒が兄の数学のテキストであった「塵劫記」を勝手に読んでいた際、兄が試しに益軒にやらせてみたころ、益軒はちゃんと内容を理解して問題を解いていたと言われます。

また、それを見た父の寛斎は益軒の将来を心配して「幼くて頭は良いが、この子は長生きできないだろう」と嘆いていたと言います。

黒田藩に使える

2代藩主黒田忠之

貝原益軒は19歳で黒田藩に衣服調達・出納係として仕えますが、2代藩主黒田忠之から怒りをかい2年程で辞めさせられてしまいます。浪人となってしまう益軒でしたが、このブランク期間に長崎へ行き舶載の洋書を読みふけり、医学の勉強に励みました。約7年後、27歳のころに藩主が3代目の黒田光之に変わり藩へ戻ることを許されます。

帰藩後は、藩の有力者である立花勘左衛門の配下となり、後に勘左衛門の甥である立花実山が益軒と親交を結ぶこととなり、黒田藩の学術発展に寄与します。

有名な大学者たちとの交流

藩政改革に取り組んだ黒田光之

明暦3年(1657年)28歳となった益軒は黒田光之の藩命により、京都へと留学し、本草学(中国の薬物学)や朱子学(中国の儒学の新しい体系)を学びます。本草学者で医師の向井元升、儒学者の松永尺五らと交流し、大学者の木下順庵と山崎闇斎からは朱子学の講義を受け、貝原益軒自身も講談しています。また、同藩の農学者である宮崎安貞が京都に来た際は、益軒が京都を案内しています。

寛文4年(1664年)35歳の時に福岡藩へと戻り、150石の知行を得て、藩内で朱子学の講義をしたり、佐賀藩との境界問題の解決に奔走したりと重責を担うようになりました。

数々の著書と代表作「養生訓」

貝原益軒が生涯書き上げた書物は、60部270余巻に及びます。健康(養生)について83歳のときに書きあげた「養生訓」は現在も読み継がれ、江戸時代の医学者“貝原益軒”を有名にした代表作です。

黒田藩の歴史書「黒田家譜」「筑前国続風土記」

「黒田家譜」は3代藩主黒田光之の命令で著した、全16巻なる黒田藩の公式歴史書です。「筑前国続風土記」は当時の福岡・博多の概要で、博多の民家数が3,118軒、人口19,468人などと地域別で詳しく記してあることから当時の様子が伺えます。

ほかにも、山伏の数から神社や寺、船、牛馬などの数、各町内の由来まで述べてあり、貝原益軒が風土紀に力を注いでいたことが見て取れます。筑前国続風土記はその後もたびたび、改訂されました。

本草学「大和本草」と儒者としての著作「大疑録」

大和本草 ※wikipediaより

江戸時代の医学者“貝原益軒”は書物で勉強するだけなく、実際に現地を訪ね、自分の目や手、口で確認することを好みました。現在も学会で博物学の文献として重んじられている「大和本草」は益軒らしい著作だと言われています。薬用博物学であり植物や動物、鉱物に関する内容となります。

儒者として書いた「大疑録」は朱子学の疑念について述べたものです。朱子学とは中国儒教の新しい体系であり、仕えていた黒田藩が奨励していたために益軒もそれに従いますが、次第に疑いを持つように。「大疑録」では朱子学の観念的な面に対する批難をまとめましたが、藩に対する遠慮もあったためか、益軒の死後出版されました。

健康法を記した「養生訓」

養生訓 ※wikipediaより

現在の平均寿命の半分にも満たなかった江戸時代において、貝原益軒は84歳まで生きています。生まれつきは身体が弱く病も抱えたため、人一倍健康に気を遣ったようです。

薬学や医学に興味を持ち、日々の食事や運動が何よりも大事であると“養生”を追求するように。また心の整理が最も重要と考え「養生訓」を書き上げます。あらゆる欲の抑制に心のコントロールは不可欠であり、自分と他者に深く心を配るよう記しています。

貝原益軒は愛妻家でサービス精神旺盛だった?

幼いころより「平家物語」や「太平記」などの和文ものに触れた結果、柔軟な価値観を持っていたとされる貝原益軒。一方で、旅好きでもあり自身の経験を紀行文にしています。益軒の書物が多くの人に愛される理由について見ていきます。

39歳で結婚。旅好きで何度も江戸や京都へのぼった

39歳のときに江月道達の姪で、当時17歳の初子と結婚。妻は後に「東軒」と号します。22歳差ながらも奥さんの故郷・秋月へよく2人で行くなど二人の仲の良さが伺えます。62歳で東軒が亡くなった後、益軒はがっくり寝こんでしまい1年経ずして後を追うように亡くなっています。

また益軒は無類の旅好きで江戸へ12回、京都へ24回のぼっています。経験に基づいて書き上げた紀行文には客観的かつユニークに、自然風土や産業技術、遺跡について記しています。元禄以後世の中が穏やかになったころ、庶民の間で旅行ブームが起こり、益軒の紀行文は時代と大変マッチし人気となりました。

著書はわかりやすく要約し大勢の人に読まれた

貝原益軒像

貝原益軒は多くの書物を世に生み出しましたが、自身も書物から学んだ内容をわかりやすく要約し、大勢の人へ伝えたいという考えの持ち主でした。その学風は著書を通して伝わり多くのファンがいたとされています。

他にも医学者として家族や知り合いに薬を調合して与えたり、農民の生計を気遣い米や麦を貸し与えたり、お金を融通してやったりしました。とても人間味のある人物でした。

まとめ

益軒夫婦の墓 ※福岡市の文化財様より

貝原益軒は黒田藩士でありながら、博物学や医学、儒学などにも精通した福岡の大学者でした。江戸や京都へも何度もわたり書き上げた紀行文、心身の健康に触れた養生訓は、益軒の代表作でありその人生の集大成とも言えるでしょう。

生前、著書のファンもおり福岡から遠く離れた江戸においてもその名は知られていましたが、従学者は黒田藩内に40人ほど、他の国に15人と決して多くはありませんでした。

ですが、サービス精神旺盛で思想よりも実学を重んじた益軒の価値観は、著書を通して多くの人に影響を与え、現在もなお読み継がれています。江戸時代の医学者“貝原益軒”は正徳4年(1714年)84歳で亡くなり、夫人とともに福岡市金龍寺に眠っています。

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