ラナルド・マクドナルド【日本史上はじめてのネイティブ英語教師】

ラナルド・マクドナルド【日本史上はじめてのネイティブ英語教師】江戸時代

嘉永6年(1853年)黒船に乗ったペリーが来航した際に、幕府側の通訳として交渉に立ち会ったのが森山栄之助(もりやま えいのすけ)です。この森山らオランダ通詞に本格的な英会話のレッスンを施したのが、今回ご紹介するラナルド・マクドナルドという人物です。彼は日本史上はじめてのネイティブスピーカーの英語教師といわれています。彼の生い立ちから森山栄之助らに英語を教えることになった経緯をご紹介します。

生い立ち

現在のアストリア市 ※wikipediaより

ラナルド・マクドナルドは1824年、イギリス領時代のオレゴン・カントリーにあったアストリア砦(現オレゴン州アストリア)で生まれました。日本史上では、この年の5月に水戸藩領の常陸大津浜沖にイギリス人12人が上陸するという事件が起きています(大津浜事件)。

また、日本近海に欧米の船の出没が増加していた時期であり、1825年(文政8年)にはオランダ、中国以外の船を見つけ次第、砲撃し追い返すという異国船打払令が江戸幕府により発せられています。

ハドソン湾会社とインディアンの交易 ※wikipediaより

ハドソン湾会社(ハドソンズ・ベイ・カンパニー、1670年に設立された現存する北米大陸最古の企業)で毛皮商を営んでいたスコットランド人の父アーチボルド・マクドナルドと、オレゴン・カントリーの原住民であるアメリカインディアン=チヌーク族の部族長の娘とのあいだに生まれたのがラナルド・マクドナルドです。今でいう「ハーフ」ということですね。

生まれて間もなく母親を亡くしたラナルドは、10歳ころまでは白人女性と再婚した父親家族と母方のインディアン家族を行き来する生活を送っていました。10歳ごろに家族を離れ、イギリス領北アメリカ。後にカナダのマニトバ州となるレッドリバー植民地に新しく設立されたレッドリバー・アカデミーで教育を受けます。

先住民が多くいたレッドリバーの教会と学校

その後、父の希望によりカナダのオンタリオ州セント・トーマスで見習いの銀行員となりますが、性に合わなかったのか、ほどなくして退職しています。

日本へのあこがれ

ラナルドは、自身の肌が有色で見た目が日本人のようであると自ら書き記しています。幼いころからチヌーク族の祖先が日本人であると教えられ、信じていたようです。そのため日本という島国に自らのルーツを感じ、あこがれる感情をいだきながら成長しました。

モリソン号 ※wikipediaより

実際1834年には漂流船の”宝順丸”がアメリカのワシントン州に流れつき、漂着民の生存者3名がアストリア砦に送られ、”幼少期のラナルドは彼らに強い興味を抱いたのでは?”と言われています。(※漂着民である山本音吉らはその後、モリソン号にて江戸に送還されるが”異国船打払令”により砲撃を受ける。この対応に日本国内で批判的な意見が出たため、幕府は後に打払令を廃止することとなる)

銀行員生活を捨ててまで出奔したのは、自らのルーツであるかもしれない日本への憧憬の念を捨てられずにいたのでしょうか。ラナルドは日本行きを計画し、ついに1845年ニューヨークで捕鯨船プリマス号の船員となります。ラナルド・マクドナルド21歳のときでした。

日本への密入国と上陸後の経過

ラナルドが乗り込んだプリマス号は1845年12月にニューヨークを出航します。ハワイ諸島、香港、バタン島などを経由し日本海近郊に到達するまでに約2年半の年月がたっていました。1848年6月27日、船が蝦夷地西岸まで到達します。プリマス号の船長を説得し、下船の許可を貰ったラナルドは衣服と食料と書物を小舟に積み込み、単身で日本への不法入国を試みます。

焼尻島にあるラナルド上陸地 ※wikipediaより

最初に彼が上陸したのは焼尻島(やぎしりとう)。しかし誰ひとりとして住民に会うことができず、民家すら発見することができません。4日間ほどこの島に滞在しましたが無人島だとあきらめると(実際には無人島ではなかった)、再度船を漕ぎだしました。7月1日には焼尻島より北の海上にある利尻島(りしりとう)に上陸しました。ちなみに焼尻島と利尻島は直線距離にして約90~100㎞離れています。

利尻島に上陸する際、ラナルドは一計を案じます。鎖国している日本に密入国すると最悪の場合、処刑される可能性があると考えたラナルドは、漂流者を装ったのです。この策は功を奏し、地元のアイヌ人に運よく助け出されたのでした。

利尻島場所

ラナルドは、利尻島でアイヌ人と10日間ほど生活をともにしたあと、現地の日本人に引き渡され、別の場所で20日間ほど取り調べを受けました。幸い拘留されながらも悪い扱いは受けなかったそうです。

その後、松前藩に送られると10月には長崎に移送され、アメリカ軍艦プレブル号で帰国するまで約7か月を長崎で過ごすことになります。

日本史上はじめてのネイティブ英語教師

長崎に移されたラナルドは、長崎奉行所で取り調べをうけます。やがて、人当たりもよく、日本語を学ぶことに前向きな気持ちをもつラナルドから本格的な英語を学びことができるのでは?と一部の侍たちは奉行所に申し出ます。

実際、1808(文化5)年のフェートン号事件を皮切りに諸外国の脅威にさらされ始めていた当時の日本。英語を扱える通詞は森山栄之助など何名かいましたが、オランダ経由の英語を教わってきたためオランダ訛りがあり、イギリス人やアメリカ人にとても通用するものではありませんでした。

長崎湾と出島 ※wikipediaより

外国人との交渉において英語やロシア語を習得する必要性を痛感していた長崎奉行・井戸覚弘(いど さとひろ)はその申し出に対し、快く許可を出します。日本史上はじめてネイティブスピーカーによる英語教師が誕生した瞬間でした。

ラナルド・マクドナルドによる英会話教室

英語学習に参加した通詞は14名。そのなかには通詞目付の本木昌左衛門と世話役の西與一郎(にし よいちろう)はもちろんのこと、後にペリーとの通訳を務める”秀才”森山栄之助らも参加しました。

大悲庵跡地 ※お寺めぐりの友様より

かくして始まったラナルドによるレッスン。とはいっても、ラナルドは囚われの身のため、大悲庵の座敷牢の格子を挟んで行うという奇妙なものでした。ラナルドが牢の中で英単語を音読したあとに、外に座っている通詞たちに1人1人発音させるというシンプルなもの。誤りのある発音は、その都度ラナルドが発音を訂正し、ラナルドが覚えたての日本語でその意味を説明しました。

この時、ラナルドは日本人の英語の特徴について以下のように記録しています。

・日本人の英語の発音については母音は問題ないが、発音できない子音がある。
・子音のあとに母音が混ざる。
・LとRの発音が上手くできない。

現代の日本人が英語で苦手としている部分は約150年前から同じだったようです。

英語学習に苦戦する通詞たちでしたが、森山栄之助に関しては、非常に熱心で覚えが早く、語学学習能力に長けているとラナルドは記述しています。

森山栄之助 ※本牧Jack様より

 

その後もラナルドと通詞たちによる英語学習はおよそ7か月間続けられましたが、1849年、アメリカ船プレブル号が難破船ラゴダ号の船員引き渡しのために長崎に寄港します。この時、プレブル号船長のグリン中佐は高圧的な対応を取りますが、通詞として参加した森山栄之助の巧みな英語により、グリン中佐は態度を軟化させたと言います。

帰国後

プレブル号 ※wikipediaより

4月24日、ラナルドは一旦長崎の出島に移されたのち、26日にプレブル号に引き渡されることとなり、およそ10か月過ごした日本の地を離れ、アメリカに送還されることになりました。

アメリカに帰国後は議会に報告書を提出し、日本社会はよく取り締まり、日本人は最高水準のマナーを持っていることを説明したと言います。その後は船員として各地を航海し、1858年にコロンビア州に渡り、鉱山業や梱包業などのさまざまなビジネスに取り組みました。

晩年のラナルド・マクドナルド

晩年はワシントン州フェリー郡の先住民居留地で暮らしていましたが、1894年に70歳でその人生に幕を閉じます。姪の腕の中で抱かれながら亡くなる間際には、

「sayonara my dear, sayonara(サヨナラ マイディア、サヨナラ)」

と言い残したと伝わっています。

おわりに

ラナルドの生誕碑 ※wikipediaより

長崎でラナルドに英語を教わった森山栄之助は、ペリー来航の際に幕府側の主席通訳をつとめました。日本が諸外国と対等に交渉をすすめるうえで、ラナルドも陰ながら貢献したといえるでしょう。

また、少年だったころからあこがれを抱いていた日本での濃密な時間は、ラナルドの人生におけるハイライトのひとつといえます。

このように日本の歴史においても、自身の人生においても、わずか10か月の日本滞在は確かな爪痕を残したのでした。

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