アラジンは中国人だった? あなたの知らない千夜一夜物語の事実

アラジンは中国人だった? あなたの知らない千夜一夜物語の事実サブカルチャー

千夜一夜物語』(せんやいちやものがたり‎)は、イスラム世界における説話集。英語版の題名より「アラビアンナイト」の名称で世界的に知られている。日本では「千夜一夜物語」の他、「千一夜物語」(せんいちやものがたり)、「アラビアンナイト」の名称でも広く知られる。

2019年にディズニー映画実写版「アラジン」が公開され、大好評を博しました。2019年6月に公開されて以降、5週連続で動員数1位を取り続け、興行収入も100億円を突破した人気作品です。そしてアラジンの原作でもある「千夜一夜物語」。千夜一夜物語といえば、イスラム教を思い浮かべる方が多いかと思います。実際、「アラビアンナイト」とも呼ばれていますよね。しかし、アラジンは中国人だったという話があれば、あなたは信じるでしょうか?今回の本記事では、千夜一夜物語の真の事実について解説していきたいと思います。

千夜一夜物語とは?

映画「アラジン」の原作でもある「千夜一夜物語」ですが、まずはこの話について簡単に解説します。千夜一夜物語は、イスラム世界で伝わる説話集のこと。「アラビアンナイト」もこのことを指します。起源は多説ありますが、物語の導入部はペルシャの王に妻が毎夜に話を語る、そんな方法で話は進行していきます。口承文学という側面も取れるでしょう。この「千夜一夜物語」は7世紀頃のササン朝ペルシャにて編纂が始まり、9世紀には今に残る話の原型が完成していました。

アントワーヌ・ガラン

18世紀に入るといよいよヨーロッパに渡ることになります。ルイ14世下で働いていた、東洋学者アントワーヌ・ガランが、アラビア語で書かれた原文をフランス語に翻訳、そして出版したのです。これによりヨーロッパ各国から次第に世界に普及していく形となり、現代にかけて世界中で翻訳、出版され、たくさんの人に読まれるようになっていったのです。

千夜一夜物語のあらすじ

とある昔、アラビアのとある国に王様がいました。彼が外遊に行っている時、王様の下で仕えてたものが反乱を起こします。王様は全員処刑することで気を鎮めますが、同時に人を信じれなくなってしまいます。腹いせや不信感から王様は、一般市民や家臣を呼び出しては、毎晩処刑していました。そんな中、とある1人の美女が王様を諫めるため嫁入りを志願します。そして彼女はその晩、王様に呼び出され処刑かと思いきや、美女は王様におとぎ話を聞かせます。続きは明日、明日はもっと面白いと言い続ける美女の話が気になる王様は、美女を殺さずおとぎ話を聞き続け、いつのまにか1000日が経過します。ここで話は終わり、いつしか王様と美女の間には子供ができており二人は幸せに暮らしました。

王を改心させたシェヘラザード

千夜一夜物語は、口語で伝えられてきた話なので、人や地域によって、あらすじの細かい部分は違うものの、大まかな内容は以上のようなものです。あたりまえですが、現実ではありえない話ですね。

実はアラジンは中国人?

辮髪スタイルの髪型から中国人だと分かる

では本題に入りましょう。実はアラジンは中国人という設定なのです。物語冒頭でおもいっきり「アラジンは中国の少年」であると記載されています。ここで考えが混じってはいけませんが、実は映画にもありました「アラジン」の話は「千夜一夜物語」に初めから収録されていた話ではないのです。確かに現在は千夜一夜物語の中のエピソードの一つと見なされていますが、実際は前述のフランス人東洋学者のアントワーヌ・ガランが原文の翻訳作業を行っていた際に”他にも物語のエピソードはあるのでは?”と考えオスマン帝国のキリスト教徒たちなどから中東やその地方に伝わる様々なおとぎ話を聞きつけ、千夜一夜物語と関係ないそれらの物語を加えて新たに出版したのが我々の知っている「千夜一夜物語」なのです。ですから、「千夜一夜物語」自体がとあるアラビアの国であった話ということに間違いはありませんが、「アラジン」の舞台がアラビアとは限らないのです。そして19世紀のイギリスの画家、ウォルター・クレインが描いた絵に映るアラジンの様子はまるで東アジア人そっくりです。

舞台は中国?日本?

どう見てもチンピラなアラジン(汗)

ウォルター・クレインの絵を見ていただければ分かりますが、日本風の建物や芸者、はたまたアフリカ出身の男性たちがたびたび見受けられます。舞台は中国なのになぜこのような設定なのかと言いますと少し事情があります。

どこの国なのかサッパリですね(笑)

まず、アントワーヌ・ガランが出版した18世紀はヨーロッパにおいて中国文化が流行していたという背景があり、その影響を受けてアラジンの舞台を中国にしたこと。さらに19世紀になると日本文化、いわゆるジャポニズムがフランスを中心としてブームとなると押絵を手掛けたウォルター・クレインはその影響を受けて押絵に反映させたという事情があったのです。

ヨーロッパは自分たち以外は全てアラブだと考えていた?

また、これはヨーロッパ人での総意でもなんでも無いのですが、「アラジン」がヨーロッパに入ってきた当時の18世紀ごろのヨーロッパ人の考え方にも理由があったのではないでしょうか。
18世紀ごろには、ヨーロッパ各国がローマ帝国でも支配できなかったアラビア半島やアジアにも侵略していた時期です。あのローマ帝国ですら打ち破れなかった未開の地・アラビアを見て、「ヨーロッパ以外のすべてを支配していたのは、アラブだったのでは?」と考えていたのです。
だから中国の話だろうと日本だろうと関係ないのです。全てがアラブの話であると考えた可能性がありえるのです。

まとめ

今回の記事の内容をまとめると以下のようになります。

・「千夜一夜物語」自体はペルシャ・アラビア地方の物語であるが本当に1001のエピソードがあるわけではない。

・「アラジンと魔法のランプ」はもともと「千夜一夜物語」に収録されていた物語ではなく、翻訳者のアントワーヌ・ガランが様々な伝承を交えて創作した中国が舞台の物語である。※また、日本で有名なアラビアンナイト物語である「アリババと40人の盗賊」と「シンドバッドの大冒険」もアラジンと同様に「千夜一夜物語」に収録された物語ではない。

・19世紀にかけて東洋に植民地を獲得したヨーロッパの事情が作品に色濃く反映された。

いつかまた新しいアラジン像がでてくるかも・・

今回は「アラジンと魔法のランプ」の知られざる事実について執筆してみましたがいかがだったでしょうか?知られていない事実であることは確かですが、自分は「アラジンの舞台が中国」ということが知られていないのは人々の勘違いが大きいと思いました。民衆の勘違いで歴史や人物像が大きく変わることもあり得ると考えれば少し怖い気もしますね(^^;)

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