戦国武将伝 第六回 依田信蕃

戦国武将伝 第六回 依田信蕃戦国時代

依田 信蕃(よだ のぶしげ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。甲斐武田氏。徳川氏の家臣。

本能寺の変の後、旧武田領である甲斐・信濃は空白地となり周辺大名の争奪戦が繰り広げられます。いわゆる「天正壬午の乱」です。最終的に徳川家康がこの戦いを制し、後の天下人への足掛かりを得るわけですが、そのきっかけを作ったのがこの依田信蕃です。彼は旧武田家臣でありながら主家滅亡後家康に仕え、甲斐・信濃を転戦。信蕃の活躍により徳川家は五ヶ国を領有する大大名へと成長します。これにより家康は秀吉と対等に小牧・長久手にて戦うことが可能となったのです。今回は家康の天下を陰ながら切り開いた男・依田信蕃の生涯に迫ります。

武田家臣時代

武田信玄

信濃の土豪・芦田信守の子として生まれ武田家・信濃先行衆を若くして務めます。
永禄11年(1568年)12月、主君である武田信玄は今川家との同盟を破棄し駿河国に侵攻すると信蕃もこれに従軍、さらに元亀3年(1573年)、信玄の西上作戦にも参陣し三方ヶ原の戦いにて徳川家康と刃を交えます。信玄の死後は跡を継いだ武田勝頼に仕え、父と共に遠江国二俣城に入城します。

長篠の戦絵図

天正3年(1575年)5月、武田軍は長篠・設楽原にて織田・徳川連合軍と激突します。世に名高い長篠の戦いです。この戦いで武田軍は壊滅的被害を受け大敗、余勢を駆った徳川軍は武田領に攻め込み信蕃が守る二俣城を包囲します。包囲の最中に父である信守が死去するというアクシデントが発生するも、信蕃は弟の信幸と共に寡兵で奮戦し徳川軍を寄せ付けませんでした。
力攻めでは落せないと判断した徳川方は城の周囲に複数の砦を築き、兵糧攻めに切り替えるも戦線は膠着状態に陥り半年間が経過します。

現在の二俣城跡地

最終的に根負けした徳川方は将兵全員の助命を約束し、二俣城の明け渡しを要求します。
信蕃はこの要求を受諾しますが、あいにくこの日は雨模様だったので「蓑や笠を身に付けて城を退くようでは敗残の兵のようで見苦しい、好天の日にお願いしたい」と申し出ます。
晴天の3日後、約束通り信蕃は部隊を率いて高天神城へと退却していきました。

忠義の臣・大久保忠世

このとき明け渡しに立ち会った家康の重臣・大久保忠世が二俣城に入城すると城内は綺麗に清掃されていました。この報告を聞いた徳川家康は大変関心したと伝えられています。
その後、信蕃は勝頼の命を受け駿河国田中城の城主となり引き続き家康に睨みを効かせています。

武田家滅亡と潜伏

甲州征伐

天正10年(1582年)2月、武田家にかつての勢いがないと見た織田信長は甲州征伐を決定。本隊の織田信忠と滝川一益が美濃方面から侵攻を開始すると、同盟国である徳川軍もこれに呼応し、信蕃の守る田中城を攻撃します。しかし、万全の準備を整えていた田中城は落城の気配を見せず、またしても家康は信蕃に悩ませられます。攻めあぐねた家康は家臣に命じて開城の説得に当たらせますが、信蕃はこれを拒絶し徹底抗戦の構えを見せます。

天目山にて自害する武田家一党

しかし翌月の3月、”天目山にて武田勝頼が自害し、武田家は滅亡した”との書簡を携えた武田家一門の穴山梅雪が田中城を訪れ、信蕃は降伏を決意します。この時信蕃は、かつて二俣城の明け渡しに立ち会った大久保忠世を再び指名し、田中城を引き渡しました。
田中城開城後、信蕃の才能と忠義を高く評価していた家康は彼を召し抱えようとしましたが、「勝頼様の安否の詳細が判らない内は仰せに従いかねる」と答え、自領の春日城へと帰還してしまいます。

信蕃を高く評価していた家康

その後、小諸城にて”鬼武蔵”こと森長可と対面し、諏訪城にいる織田信忠に会うべく道を急ぎますが、旅の道中に家康が遣わした使者と出会います。
使者が言うには家康は信長より”武田家に忠実だったものは見つけ次第切り捨てよ”と厳命が下されたので、このまま信忠のもとへ行けば殺されてしまうという忠告でした。
それを聞いた信蕃は深く家康に感謝し、忠告を聞き入れます。
使者の手引きにより信蕃は従者数人と共にかつての領地である遠江国二俣の奥小川という場所に身を潜めます。この間の信蕃の動向は不明ですが、この時に正式に徳川家臣となり、残党狩りが落ち着いたのを見計らい信濃に戻ったのではないかと思われます。

天正壬午の乱 信州争奪戦

天正壬午の乱各勢力図

同年6月2日、本能寺の変により信長が横死すると占領間もない甲斐・信濃の地は混乱に陥ります。北信濃の森長可、南信濃の毛利長秀は領地を放棄してそれぞれ美濃と尾張に帰還し、甲斐の河尻秀隆は武田遺臣の一揆勢により殺害。さらに上野国を任されていた重臣・滝川一益は北条家の反撃を受け敗走してしまったため甲斐・信濃・上野は完全に空白地帯となってしまいます。
一方、家康は信長の招待を受けて堺に滞在していましたが、信長死すの報を受けると本拠の三河に戻るべく伊賀越えを敢行し、脱出に成功します。
その後、家康は明智討伐の軍を起こすと同時に、無主状態となった甲斐・信濃を抑えるべく行動を開始。これに合わせて信濃に身を潜めていた信蕃も家康の命を受け行動を開始します。
いわゆる”天正壬午の乱”の幕開けです。

小諸城跡地

同年6月20日、北条に敗れ小諸城に入城していた滝川一益のもとを訪れた信蕃は人質を差し出し一益を本拠の伊勢長島に退却させます。一益が去った後、信蕃は武田遺臣900人弱を集めて小諸城に入城し、佐久・小県郡周辺の国人衆の懐柔に努めます。
翌月、一益を破った北条軍は信濃に侵攻を開始。臣従した真田昌幸を先方として北条主力軍4万3000を上野より碓氷峠(うすいとうげ)を越えて進軍させます。
さすがの信蕃もこの大軍の前ではどうすることも出来ず小諸城を放棄し退却します。その後、体制を整えると「蘆田小屋」(春日城か?)と呼ばれる城に籠城しゲリラ戦を展開します。
北条軍は勢いに乗り甲斐国若神子にまで戦線を拡大しますが、信蕃は徹底的に北条の補給線を分断したため、次第に北条軍は兵糧不足に悩まされます。

真田昌幸

さらに信蕃はこの間に真田昌幸を説得し、徳川方に与させることに成功。真田は北条方が入っていた自城・沼田城を奪取したため北条方は上野北部を喪失し、信濃への兵站が事実上途絶える形になってしまいます。
信蕃はこの機を逃さず部隊を転進させ春日城を攻撃しこれを奪還、北条軍本体の後方を攪乱します。加えて北条軍4万は黒駒合戦において少数の徳川軍に敗北していたため、形勢は一気に徳川方に有利に進みだします。

一気に勢力拡大に成功した徳川家

10月29日、北条勢は戦局の不利を悟り徳川家との講和を結びます。この講和の条件は「甲斐・信濃は家康に、上野は北条にそれぞれ切り取り次第とし、相互に干渉しない」というものだったので家康は武田遺領2ヶ国を領有することに成功しました。
戦後、家康は信蕃の活躍を賞賛し、佐久・諏訪の二郡を与え、信蕃を小諸城代に任命します。
こうして本能寺の変から約5ヶ月続いた乱はいったん終息し、小諸城主となった信蕃はますます家康の信頼を受けるようになっていきます。

無念の討ち死

小諸城主となった信蕃でしたが、信蕃に降ることを快しとしない一部の信濃国人衆たちは、北条派の岩尾大井氏のもとに馳せ集まり抵抗の姿勢を見せます。
天正11年(1583年)2月21日、信蕃は岩尾城に籠った大井行吉を討つべく徳川家臣・柴田康忠を軍監として伴い出陣します。

岩尾城跡地

大井勢の中には名だたる将もいなかったので労せず勝つことができると読んでいた信蕃でしたが、敵の必死の抵抗に予想外の苦戦を強いられます。
これを見た軍監の康忠は力攻めをやめて持久戦にするべしと進言しますが、信蕃はこれを却下し、力攻めを継続しますが上手くいきません。見かねた康忠は信蕃の陣に使者を送り、信蕃の戦術を批判します。

この時代の城門には鉄砲狭間が備わっている

これを聞いた信蕃は自ら陣頭に立ち岩尾城の大手門を破り城内に乱入すると敵味方入り乱れての激戦となります。そして矢倉の上から大井勢の鉄砲が依田勢に向かって一斉に放たれます。
陣頭で指揮を執っていたことが災いし信蕃に多くの弾丸が命中、この戦いで彼はあえなく討ち死にしてしまいます。享年36歳。
また弟である依田信幸もこの時に被弾し絶命。主将を失った依田勢は戦意を喪失し、散り散りになって退却してしまいます。

おわりに

依田信蕃像

信蕃の死から10日後、軍監・柴田康家は開城降伏の使者を送り、大井行吉は城を明け渡し降伏しました。
その後、信蕃の死を知った徳川家康は深く悲しみ、信蕃の子竹福丸に家康の「康」の字を与えて康国と名乗らせ、さらに「松平」の名字をも与えて松平康国として小諸城主とした。そして、大久保忠世を後見人として佐久郡を治めさせます。
また相続を許された所領が当時の家康家臣としては最大級の約6万石という大領だったことからも家康の信蕃に対する信頼の深さが伺えます。
その後、3代目当主・松平康真の代にて小さな喧嘩が元で改易の憂目にあってしまい微禄の身となってしまいますが、もし信蕃が生きていたら徳川家中においてどのようなポジションについていたのか気になるところです。しかし、存外柴田康忠とのやり取りを見る限り、派閥抗争に巻き込まれ粛清の対象となっていたかも知れませんね。

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