重耳~春秋五覇の筆頭となった漂泊の覇者~

重耳~春秋五覇の筆頭となった漂泊の覇者~春秋時代

文公(ぶんこう、紀元前696年 – 紀元前628年、在位紀元前636年 – 紀元前628年)は、中国春秋時代の晋の君主。姓は姫、諱は重耳(ちょうじ)、諡は文。晋の公子であったが、国内の内紛をさけて19年間諸国を放浪したのち、帰国して君主となって天下の覇権を握り、斉の桓公と並んで斉桓晋文と称され、春秋五覇の代表格とされる。

晋の献公の次子として生まれながらも国内の政争に巻き込まれ古代中国をほぼ一周し、遂に天下の覇者となった文公こと重耳です。各国を放浪中、一時は物乞い同然にまで身を落とすほど困窮しますが、時の有力者である斉の桓公、楚の成王、秦の穆公たちの協力を受けて重耳は少しずつ覇者としての器を磨いていきます。そして19年の歳月をかけて己の祖国に帰国するというとんでもない経歴の持ち主ですが、彼の人生を追うと正に覇者になるべくしてなった人物であることが分かります。今回はそんな春秋五覇の筆頭となった重耳の長い長い旅路を巡っていこうと思います。

三人の公子と揺れる晋国

春秋時代勢力図

春秋時代の黄河中流域を支配した大国の晋は本家と分家に別れ争っていましたが、重耳の祖父に当たる武公(姫称)が本家を滅ぼし自ら晋公となります。
その後、武公の子である献公(姫詭諸)が跡を継ぐと、献公は北方遊牧民族である狄(白狄)の大戎出身の狐突の娘の大戎狐姫を嫁に迎え二人の間に重耳が誕生します。重耳には異母兄に太子の申生と異母弟の夷吾がいましたが、太子の申生が優秀だったため兄弟間の仲は平穏なものでした。
しばらく後、異民族の驪戎が晋国境を犯しているとの報が入り献公はこれを討伐し、驪戎の姫であった驪姫を側室として迎えます。献公は驪姫を寵愛しますが逆に骨抜きにされてしまい、かつての聡明さに陰りが見え始めていきます。
そして正夫人となった驪姫は献公との間に生まれた息子の奚斉を跡継ぎにしようと陰謀を巡らし始めます。三人の王子に危険が迫ります。

驪姫の乱

驪姫の乱

献公は驪姫の言葉にしか耳を傾けなくなり、三人の公子を疎ましく思うようになります。驪姫の策謀により、重耳は蒲という最も遠いところへとばされ、夷吾もこの次に遠いところへとばされ、太子申生も首都ではなくなっている古都である曲沃へと追いやられてしまいます。
そして驪姫は献公に三人の公子は謀反を計画しているとの嘘の情報を教え、疑心暗鬼に陥った献公は三人を詰問すべく首都に来るよう呼びつけます。三人はこれが驪姫の罠であることを見抜き重耳と夷吾の二人は国外へと脱出しますが、太子申生は父親毒殺未遂の汚名を着せられ、それを信じる父の変わりように失望し自害してしまいます。
晋を脱出した重耳は母の生まれ故郷である白狄へ亡命し、しばらくこの地に身を隠すこととなります。このとき重耳43歳。長きに渡る亡命生活の始まりでした。

亡命

白狄へ亡命した重耳はこの地で妻を娶り子供たちを儲けます。しばらく平穏な日々を過ごす重耳でしたが、一方で祖国晋では父である献公が亡くなり国は大混乱に陥っていました。献公亡き後、正夫人である驪姫は自らの子である奚斉を跡継ぎにしようと画策しますが、重臣である里克がクーデターを起こし驪姫と奚斉を殺害したのです。
その後、里克は使者を使わし重耳に帰国して公位を継ぐよう呼びかけますが重耳は警戒しこれを拒絶します。代わりに異母弟の夷吾が晋に帰国し公位を継いで恵公となりますが、夷吾は次々に家臣を粛正、さらに異母兄である重耳にも公位簒奪の疑惑が向けられ暗殺の刺客が差し向けられます。危険を悟った重耳たち一行は白狄へ出て大国である斉へ身を寄せることにします。

苦難の旅が始まる

出発に際して重耳は妻に「私を25年待ってくれ、それでも帰ってこなかったら再婚しなさい」と言いますが、妻は笑いながら「25年も待ったら私の墓に植えた柏の木も大きくなっていることでしょう。でも私はあなたのことを待っています」と答えます。白狄へ亡命してから12年目のことでした。

放浪

重耳と主な家臣一同

白狄を出発した一行はひとまず衛を目指します。しかし衛の国主である文公は重耳一行を煙たがり早々に追い返してしまいます。しかたなく一行はそのまま斉を目指しますが、道中食糧が底をついてしまい五鹿という土地で農民に食糧を恵んでもらえないか尋ねます。しかし農民らは重耳一行を馬鹿にして器に土を盛って差し出します。この対応に重耳は激怒して農民らを切り捨てようとしますが、家臣の一人・趙衰はこれを喜んで受け取ります。重耳が理由を聞くと趙衰は「土を得たということは、この土地を得るという吉兆です。拝して受けとりなされ」と答えます。この返答を受けて重耳は刀を鞘に収めました。このような屈辱をうけながらも一行は東に進み、なんとか斉に辿り着きます。

斉の桓公

斉の国主・桓公はみすぼらしい亡命公子に過ぎない重耳を手厚く迎え、戦車20乗の馬(当時の戦車は四頭引きなので80頭)を贈り、また娘(斉姜)を重耳に娶わせ大いに歓待します。当時桓公は名宰相と言われた管仲を失っており、管仲に代わる人物として重耳に期待していたのです。
しかし斉に来てから5年後、その間に桓公は薨去し、その後継者を巡って斉では激しい内乱が起きていました。斉国内の情勢に不安を抱いた重耳の家臣・趙衰と狐偃は脱出を計画しますが、重耳本人は斉で妻を持ったこともあり、斉を離れようとは思わなくなっていました。
ここで趙衰と狐偃は重耳の妻・斉姜の協力を得て、重耳が酒に酔って眠ってしまった隙に馬車に乗せて無理やり斉から脱出してしまいます。
朝になり目を覚ました重耳は無断で連れ出したことに激怒し狐偃を殺そうとしますが、狐偃は「私を殺してあなたの大業が成るのなら望む所です」と答え、怒った重耳は「事が成らなかったら殺してそなたの肉を食うぞ」と言うと、狐偃は「事が成らなかったら私の肉は生臭くて食べられたものではないでしょう」と言います。家臣一同が重耳を思っての行動であったことを悟った重耳はしぶしぶ狐偃らに従います。重耳55歳。まだまだ苦難の旅は続きます。

各国を巡って

重耳一行の旅路

斉を出た一行はやがて曹に辿り着きますが、曹の公主・共公の態度は冷たく重耳一行に粗末な宿舎を与えただけでした。また共公は歪んだ性癖の持ち主だったのか重耳が珍しい「一枚あばら」だと聞くと裸を見せるよう所望したり、重耳の入浴中に覗いてきたりと無礼を働きます。
これを見た共公の家臣・釐負羈(きふき)は壷に食料を詰め、上に璧を乗せて重耳に献じて詫びを入れますが、重耳は食料だけ受け取り璧は返しました。後に重耳が覇者となると共公は殺されかけますが、この時の釐負羈の厚意に免じて死を免れる脱がれることとなります。

「宋襄の仁」の由来となった襄公

曹を出国した一行は次に宋に入りますが、このころ宋の公主・襄公は楚との戦争(泓水の戦い)に敗れ、襄公も負傷中の身でした。そんな状態にもかかわらず襄公は病身を押して重耳一行を出迎え、斉の桓公と同じく80頭の馬を贈り歓待しました。
しかし宋は小国で戦に負けたばかりでとても重耳たちに力を貸す余裕はありませんでした。
やむなく一行は襄公に別れを告げて鄭に向かいますが、鄭の文公は一行を門前払いしたため、仕方なく南方の大国である楚を目指します。

三舎を避ける

楚の成王

重耳たちが楚に辿り着くと、楚の成王は亡命公子の重耳一行を同格の国の諸侯と同じ格式でもてなします。このもてなし方にさすがの重耳も尻込みし、辞退するべきではないかと考えますが、家臣・趙衰は「楚は大国でありながらも、辛酸を舐めてきた我々に国賓の礼をもって迎えられています。これは天の思し召しです。辞退なさってはなりません」と発言したので重耳は客礼をもって成王に謁見することを決めます。
成王は連日宴を開いて重耳を手厚くもてなしますが、ある日成王は「もし貴方が国に帰り、晋の君主になることができたら、私に何をお返ししてくれるのでしょうか?」と尋ねました。
この返答に対して重耳は厚遇に対する謝意として「もし成王と戦うことになったら、軍を三舎(軍が3日で行軍する距離)退かせましょう」と返答します。
成王はこの返答に大笑いしましたが、楚の重臣である子玉は亡命公子の分際で何たる言いようかと激怒し重耳を処刑すべしと成王に進言しますが、成王は「重耳どのは各国を放浪し、人間として大きな度量を備えられている。天が興そうとしているものをどうして止められようか」と答え子玉の意見を退けます。また、この約束は楚にとって大きな意味を持つこととなります。

帰国

紀元前637年、晋を治めていた異母弟の夷吾(恵公)が死去します。これを耳にした献公の太子である子圉は友好国の秦の人質として留め置かれていたのですが、秦の許しも得ずに勝手に晋へと帰国し、新たな晋の国主・懐公として即位してしまいます。
秦公である穆公はこの背信行為に激怒し、楚に身を寄せている重耳こそが晋の国主に相応しいと考え、さっそく重耳に秦に身を寄せるよう楚に使者を送ります。

秦の礎を築いた穆公

事情を知った楚の成王は重耳に秦へ行くように説得し、重耳もこれを受け入れ秦へと向かいます。
秦に到着すると穆公は喜んで重耳を迎え入れ、五人の姫を重耳に与える歓待ぶりを見せます。
秦に入国してから数ヶ月後のある日、重耳の下に祖国である晋から密かに使者が訪れます。
使者たちの言によれば、新たに晋の公主となった懐公は暴政を敷き、重耳と繋がりのあった者たちを問答無用で粛清したりと権力を欲しいままとしており、晋の重臣一同は重耳に新たに晋の公主となって欲しいとのことでした。これを聞いた重耳は穆公に懐公討伐のため力を貸して欲しいと請います。穆公は快くこれを受け入れると大軍を動員し晋に攻め込みます。

遂に晋への帰還を果たした重耳

これを見た懐公は自ら兵を率いて秦軍を迎撃しますが、懐公に従う将兵は一部だけで、他の晋軍は重耳が帰ってくることを聞くとさっさと秦軍に寝返ってしまいます。
結局、懐公はこの戦いにて戦死してしまい、懐公の側近たちもほとんどが戦死してしまいました。
こうして重耳たち一行は遂に祖国である晋に帰国し、重耳は晋公に即位し文公を名乗ります。この時、重耳62歳。約19年にも及ぶ長い長い亡命の旅が今ここに終わりを告げたのでした。

その後

重耳は約束通り軍を三舎退かした

晋公となった重耳はまず国内を安定させ、さらに紀元前635年に起こった周王室の内紛に介入し、都の反乱を鎮めます。またかつて身を寄せていた楚の成王が宋討伐に乗り出すと、重耳は宋救援のため軍を率いて成王と対峙します。成王は分が悪いと見て軍を撤退させますが、しかし重臣の子玉だけは撤退せず、ここで重耳を討つべく決戦を挑みます。重耳はかつての約束通りまず全軍を三舎退かせ成王との約束を果たすと城濮の地にて子玉の軍と激突し、これを撃破します。

城濮の戦い

城濮の戦いの後、重耳は信頼に足る人物であると改めて認識した各国諸侯は重耳を覇者として推薦し、重耳は周の襄王を招いて諸侯と会盟し覇者と認められました。
しかし、さすがの重耳も高齢には勝てず在位9年という短さでこの世を去ります。しかし、混乱の続いた晋を安定させ、覇業をもたらした功績は覇者と呼ばれるにふさわしく、現在も春秋時代最高の覇者と呼ばれるに至っています。

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