長谷川等伯【桃山時代を代表する狩野派と並び立つ長谷川派の創始者】

長谷川等伯【桃山時代を代表する狩野派と並び立つ長谷川派の創始者】戦国時代

織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らが天下を平定するため、しのぎを削っていた時代。絵画の世界では、足利幕府の御用絵師となって以降、狩野派が大きな力をもっていました。この状況に独自の技法で道を切り開き、中央画壇に上りつめた男がいました。それが今回ご紹介する長谷川等伯です。 等伯が制作した作品を紹介しながら、彼の人生をふりかえってみましょう。

出自と能登での生活

長谷川等伯は1539年(天文8年)、能登国・七尾で生まれました。当時の能登は、畠山氏が支配しており、第7代当主・畠山義総(よしふさ)が能登・畠山氏の全盛期を築いていました。義総に仕える下級家臣の奥村文之丞宗道の子として生まれたのが、長谷川等伯です。

畠山氏居城「七尾城」跡地

幼少のころに、染物業を営む奥村文次を通じて、同じ染物屋である長谷川宗清の養子となります。水墨画家として有名な雪舟の弟子・等春(とうしゅん)の弟子でもあった養父・宗清。等伯は10代のころから、この養父と養祖父から絵の手ほどきを受けたとされます。

等春と等伯に師弟関係があったのかは定かではありません。しかし等伯は、『等伯画説』の画系図において、等春を自らの師匠と位置付けています。等春から1字もらい、長谷川信春と名乗るようになった等伯は、日蓮宗関係の作品を多く残しています。

妙成寺(みょうじょうじ、石川県羽咋市)を中心に、能登地方が法華信仰に熱い土地柄であり、自らも日蓮宗の信徒であったことが影響しており、初期の等伯には日蓮宗関連の仏画や肖像画が多くみられます。

『日蓮聖人像』

生家・奥村家の菩提寺である本延寺(ほんねんじ、石川県七尾市)に彩色、寄進した木造『日蓮聖人坐像』(1564年作)や富山県高岡市・大法寺(だいほうじ)にある『日蓮聖人像』(1564年作)、『鬼子母神十羅刹女図』(1564年作)、『三十番神図』(1566年作)などが等伯青年期の作品として有名でしょうか。

私生活では、1568(永禄11)年、妻・妙浄(みょうじょう)との間に嫡男・久蔵(きゅうぞう)が生まれます。しかし、その3年後の1571(元亀2)年、養父・宗清と養母・妙相が相次いで亡くなったことをきっかけに、意を決し上洛しました。このとき長谷川等伯、33歳でした。

京都、堺を行き来する下積み時代

京都では、郷里の菩提寺である本延寺の本山・本法寺(ほんぽうじ)を頼り、そこの塔頭(たっちゅう)である教行院で寄宿生活が始まりました。翌年には本法寺8世住職の日堯(にちぎょう)の肖像画『日堯上人図』を描き残しています。

長谷川等伯と親交があった”茶聖”千利休

上洛後、最初は当時の主流だった狩野派の狩野松栄(しょうえい)のもとで学ぶもののすぐにやめ、京都と堺を行き来する生活を送ります。この間、狩野派で学んだ技術と千利休をはじめとする文化人との交流により、宋や元時代の多くの中国絵画に触れる機会が増えたことで、等伯独自の作風が築き上げられたとされます。上洛してからの数年は等伯にとっては人脈作りと技術を磨く大切な時間でした。このあとご紹介する大徳寺での仕事までは目立った活躍がありませんが、虎視眈々と飛躍するタイミングを狙っていたのです。

畠山義続像との説もある「武田信玄像」 ※肖像ドットコム様より

このころの作品として、東京国立博物館所蔵の『伝名和長年像』、岡山県・妙覚寺所蔵の『花鳥図屏風』や成慶院所蔵の『武田信玄像』があげられます。

雌伏の時代を乗り越え、いざ中央画壇へ

1589(天正17)年、等伯は利休を施主として増築、寄進された大徳寺山門の天井画と柱絵の製作依頼をうけます。同寺の塔頭である三玄院の水墨障壁画を描き、等伯の名は一気に知れ渡るところとなりました。

大徳寺山門 ※等伯の作品は現在は保護のため閲覧不可

「等伯」の号を使い始めたのはこれから間もなくのことです。かつて等春から1字もらい信春と名乗り、またしても1字もらったことから、自らのルーツが雪舟にあることをアピールし、長谷川派の権威性につなげる意図があったと考えられています。

狩野派との対立、並び立つ存在に

狩野派が進境著しい等伯に警戒心を抱き、対立が表面化したのもこの時期のことです。1590(天正18)年、豊臣秀吉が造営した仙洞御所対屋(せんとうごしょたいのや)障壁画の製作が等伯に発注されるところまで話が進んでいることを知った狩野永徳とその子・光信による政治工作により、発注が取り消されるという事件が起きました。

楓図 ※wikipediaより

この1か月後に永徳が急死すると、1591(天正19)年、秀吉の嫡子・鶴松の菩提寺である祥雲寺(しょううんじ、現在の智積院)の障壁画制作を長谷川派が受注することになりました。狩野派が抱いていた警戒心が現実のものとなった瞬間でした。このときに描かれた『楓図』は日本障壁画の最高傑作と評価されており、等伯の代表作の一つといえるでしょう。

しかし、この障壁画の製作途中に、長谷川派飛躍のきっかけを作ってくれた千利休が秀吉の命により切腹。さらに才能に恵まれ、跡継ぎと見込んでいた嫡子・久蔵を失うなど不幸が続きました。

「松林図屏風」(右隻) ※wikipediaより

このあとに製作された『松林図屏風』は、息子・久蔵の死を嘆いて描かれた作品といわれています。だれかの依頼を受けて描いた作品ではない点が特徴のひとつとなっており、この作品に用いられた技法は狩野派などにはない作風で、等伯独自の表現を生み出したといえます。水墨画の最高傑作といわれる『松林図屏風』は東京国立博物館に所蔵されています。

晩年

1599(慶長4)年、本法寺に寄進した『大涅槃図』で、「自雪舟五代」を落款に冠すようになり、雪舟-等春-法淳(養祖父)-道浄(養父)-等伯と続く自らの画系と家系の正統性を主張しました。

大涅槃図 ※七尾商工会議所観光委員会様より

このことが功を奏し、法華宗以外の宗派の寺院からの製作依頼が次々と舞い込むようになり、その功績により1604(慶長9)年に法橋(ほっきょう)、翌年には法眼(ほうげん)という高僧に与えられる位を授かりました。等伯は単なる絵師の立場を超え、京都町衆として有力者となり本法寺の客殿や仁王門を寄進するまでの存在となっていました。

1610(慶長15)年、徳川家康からの招きに応じるため次男・宗宅とともに江戸に向かう途中で発病。江戸に到着するものの2日後に病死し、72年の生涯を閉じました。

おわりに

当時の絵画の世界では狩野派が絶対的な力をもっており、並大抵の努力だけでは中央画壇に上りつめるなど不可能な状況でした。等伯にはそれをひっくり返すだけの実力があったということでしょう。それは絵を描く技術はもちろんのこと、後ろ盾となってくれる有力者(等伯の場合では千利休)を見極める眼力、その人物と良好な関係を構築する政治力、時流を読む力、など。

京都本法寺に建つ長谷川等伯像 ※トリップアドバイザー様より

七尾から意を決して上洛し、一代で長谷川派を確立し、狩野派と並び立つ地位に押し上げるには、単なる技術力のある絵描きでは到底なしえることのできない偉業であったように感じます。

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