足利直冬~将軍に背いた御落胤~

足利直冬~将軍に背いた御落胤~南北朝時代

足利 直冬(あしかが ただふゆ 1327年?~1387年?) は南北朝時代の武将。室町幕府初代将軍・足利尊氏の落胤。尊氏に実子として認知されず、尊氏の同母弟・足利直義の養子となる。観応の擾乱を機に尊氏と徹底して対立・抗争を繰り広げて南北朝時代を激化させた。

古今東西、時の権力者には御落胤(隠し子)の噂というものは絶えないものですが、今回紹介する足利直冬は尊氏から長い間実子と認知されず、最終的に父親に真っ向から弓を引いたという日本史において大変珍しい人物ですが、武将としての力量は父・尊氏に劣らず優秀であり、もし直冬が正式な嫡子として誕生していたなら南北朝の動乱もここまで激化しなかったのではないでしょうか。今回は将軍の御落胤として実父を最後まで苦しめた叛逆の貴公子の生涯に迫ります。

幼少期

足利尊氏

生年については不明な点が多いですが嘉暦2年(1327年)とする説が有力視されています。母親は越前局とされていますが、相当身分の低い女性であったらしく詳しいことは分かっていません。ただ若き日の足利尊氏が彼女と出会い一夜の情で直冬が誕生したのではないかと言われています。
その後、幼名を新熊野(いまくまの)と号し、相模鎌倉の東勝寺に出され喝食となりますが、僧侶として修行に専念していたとは考えにくく、問題児であったとされています。
貞和元年(1345年)頃に還俗し、東勝寺の僧侶である円林に伴われて上洛し尊氏との対面を望みますが、尊氏は新熊野を実子と認知しておらず対面を許しませんでした。
やむなく新熊野は独清軒玄慧法印という高名な学者(後醍醐天皇の学問の師)の下で学問に励み、父に認められる機会を待ちます。

足利直義

その後、独清軒玄慧法印は新熊野が見どころのある若者であると見抜き、尊氏の弟である足利直義に相談したところ、直義には子供がいなかったので甥に当たる新熊野を養子として迎え入れることを決めます。直義の養子となった新熊野は義父の一字である「直」の一字を貰い「直冬」と名乗り実父尊氏と念願の対面を果たしますが、尊氏の直冬を見る目は冷たいものでした。

直冬出陣

甲冑姿の直冬

正平3年/貞和4年(1348年)に紀伊方面で南朝方が蜂起し勢力を拡大したため足利尊氏は討伐軍を差し向けます。ここで直義が討伐軍の総大将に直冬を推挙したので、やむなく尊氏は直冬を総大将とし出陣させます。直冬は三ヶ月の間、南朝方の軍勢と攻防戦を繰り返しながら各地を転戦し、初陣でありながらも見事南朝方を鎮圧し大功を挙げます。
さしもの尊氏もこの働きには喜んでくれるだろうと直冬は京都に凱旋しますが、相変わらず尊氏の直冬に対する態度は冷たいもので、戦功を挙げたことに関してもむしろ不快感を示す態度を取ります。また、尊氏の周囲の家臣たちも直冬に対して冷たい視線を送ります。
実父たちの態度に失望する直冬でしたが、一方で義父・直義やその家臣団からは武功を挙げたことに賛辞を贈られたため、次第に直冬の愛情は実父よりも義父の直義に向けられるようになります。

父との対立

現在の山口県である長門国

正平4年/貞和5年(1349年)直冬は昨年の戦功により長門探題に任命されます。長門探題は西国を管理する重要な役職ですが、「直冬を京都から遠ざけたい」という尊氏を中心とした幕府からの
左遷であることは目に見えていました。長門探題の任を受け西国へ向かう直冬でしたが、直冬の心は幕府への不信感で満たされます。

高師直

そして直冬が長門に着任してから数ヶ月後、幕府内では執事・高師直と足利直義の派閥争いが勃発し、幕府は二分される形となってしまいます。さらに高師直はクーデターを起こし直義は失脚、これを見た直冬は義父を救うべく軍勢を率いて上洛しようとしますが、尊氏の意向を受けた播磨の赤松円心に阻止され足止めを喰らいます。この直冬の動きに危険を感じた尊氏は高師直らの進言を受け入れ直冬討伐を決意。尊氏は家臣の杉原又四郎の軍勢200余りに直冬の陣を奇襲させるも直冬は何とかこの場を切り抜け船で九州へ逃れることに成功します。この事件を機に直冬の「尊氏憎し」の感情は頂点へと達し、幕府打倒を決意することとなってしまうのです。

直冬決起と観応の擾乱

「観応の擾乱」時の勢力図

九州へ脱出した直冬は熊本を拠点とし各地の国人衆や有力大名の阿蘇氏を糾合して戦力を整えます。また九州の南朝勢力らと協調路線を取り、反直冬派であった少弐頼尚の娘を娶ると勢力を九州全土へと広げていきます。直冬を放置できなくなった幕府は将軍尊氏自ら兵を率いて討伐に向かいます。
しかし兄・尊氏が出陣した隙をつき、失脚していた直義が京都を脱出し吉野の南朝に降伏してしまいます。南朝に降った直義は自らの支持勢力を集めて挙兵し京都へと進軍。幕府のある京都を占拠してしまいます。九州へ向かっていた尊氏は直冬討伐を中止し、軍を返して直義軍と激突します。ここに幕府を揺るがす兄弟の政争「観応の擾乱」が勃発します。

足利義詮

足利尊氏は高師直や嫡男・足利義詮と共に京都奪回を図りますが、直義軍に敗北し仕方なく和睦を結びます。その後、幕政に復帰した直義は政敵である高師直を暗殺し、義子である直冬を正式に九州探題に任命するよう要求します。尊氏は直義の要求に従うものの、将軍である尊氏は直義派の家臣の懐柔を行い次第に幕府内の形勢は尊氏に有利となっていきます。危険を感じた直義は京都を脱出し、鎌倉に拠点を構え再び兄・尊氏と争う姿勢を見せますが、尊氏はあえて南朝に降伏し南朝から直義討伐の綸旨を授かると直義を討つべく出陣し、駿河国薩埵山にて両軍は激突。尊氏はこの戦いに勝利します。(薩埵峠の戦い)
戦いに敗れた直義は尊氏によって浄妙寺境内の延福寺にて幽閉されますが、わずか一ヶ月後に直義は急死してしまいます。尊氏による毒殺とも言われていますが、これにより観応の擾乱は幕を閉じます。しかし九州に割拠していた直冬が再び尊氏の前に立ち塞がろうとしていました。

果てしなき争い

京都の重要拠点であった東寺

義父である直義を失い九州で孤立した直冬は、かつて長門探題であった時の拠点・長門国豊田城に拠ります。その後、直冬の下にかつての直義派の家臣たちが続々と集結し戦力を充実させます。さらに畿内の直義派である石塔氏、吉良氏によって直冬と南朝の講和が成立すると正平9年/文和3年(1354年)5月に直冬はこれら反尊氏派の軍勢を率いて上洛を開始します。
翌年1月、直冬は京都に進撃し、異母弟・義詮を京都から追いやると東寺・実相院に本陣を置き、東坂本に陣を敷く足利尊氏と対峙し一触即発の状況になります。

源氏の聖地である石清水八幡宮

そして2月6日、ついに両軍は激突し直冬は主力の山名軍と共に奮戦しますが、次第に戦況は幕府方が有利となっていき直冬は石清水八幡宮へと撤退し戦力の立て直しを図ります。敗れたとは言え直冬の下にはまだ数万の軍勢が残っており、この軍勢を率いて一大決戦を挑むべしと直冬の配下は口を揃えて進言します。しかし、直冬が決戦に及ぶことはありませんでした。

終局~その後~

結局、直冬は幕府軍に決戦を挑まず、それ以降自ら陣頭に立って戦うこと止めて後方から軍勢を指揮するだけとなります。理由については定かではありませんが、直冬自身が実父との争いに疲れ果てていたのかもしれません。そして正平13年/延文3年(1358年)に足利尊氏がこの世を去ります。
南朝方の攻勢のチャンスであったにもかかわらず、直冬の戦意喪失もあったのか積極的な攻勢には移れず幕府軍の反撃に合い劣勢となっていきます。そして正平18年/貞治2年(1363年)直冬方の大内弘世、山名時氏らは幕府に降伏。遂に直冬党は瓦解してしまいます。

南北統一を成し遂げた足利義満

直冬党の消滅によって観応の擾乱より始まった、尊氏派・直義派(直冬派)による悲惨な内紛劇はここに幕を閉じます。その後、足利直冬は歴史の表舞台から突如姿を消し、消息不明となります。
一説によれば、第3代将軍・足利義満と和解し、石見に隠棲する事を義満から認められて義満時代の中盤まで存命したともいわれていますが、詳しいことは分かっていません。
また、島根県江津市にある南陽山慈恩寺は晩年の直冬が出家し、ここに隠棲したと言われており、供養堂には「足利直冬像」とされる法躰像が安置されています。

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