来栖良 青い目をした日本兵パイロット

来栖良 青い目をした日本兵パイロット日本史

来栖 良(くるす りょう 1919年1月8日 – 1945年2月17日)は、日本の陸軍軍人、戦闘機操縦者。最終階級は陸軍技術少佐。外交官の来栖三郎とアメリカ人の母親アリス・ジェイ・リトルを両親に持つ。

現在日本ではハーフ(混血)と呼ばれる方が芸能界などでも多く活躍されているので、珍しい存在ではなくなりつつありますが、第二次世界大戦当時は人種差別の概念は根強いものであり多くの”ハーフ”と呼ばれる人たちは己のアイデンティティに葛藤を抱えながら過ごしていました。今回紹介する来栖良は日米の混血児という立場ながらも多くの日本兵たちから信頼を勝ち取り、最終的に悲劇的な最後を遂げた人物です。今回はそんな”青い目をした日本兵パイロット”についてご紹介していこうと思います。

生い立ち

来栖三郎

来栖良は、1919年1月8日にアメリカのシカゴで生まれます。父は日本の外交官で駐ドイツ特命全権大使も務めた来栖三郎。あの日独伊三国軍事同盟の調印式に参加した人物です。母はアメリカ人のアリスで、2人の間に長男として来栖良は生まれました。来栖良自身から見て”帰国”という言い方が正しいかは分かりませんが、1927年には父の出身地でもある日本へ移住します。
この頃、良は10歳ですが中学生になると千代田区にある暁星中学校で過ごして現在の横浜国立大学工学部に進学します。(当時は横浜高等工業学校/旧制専門学校) また、少年時代はその西洋人寄りの容姿からいじめや強い偏見を受けたりすることがありましたが、本人の持ち前の性格の良さにより次第にそういった差別を受けることはなくなっていったそうです。

来栖良と父・三郎

当時の横浜高等学校在学時はラグビー部に属し、キャプテンを務めるほどになります。
1940年(昭和15年)3月に同校機械科を繰上げ卒業、翌年の1941年に川西航空機に就職します。
”川西航空機”は今は無い航空機メーカーですが、現在の新明和工業のルーツともなっている企業です。世界で初めて太平洋の無着陸横断飛行を試みた航空機K-12(愛称:桜号)を開発した航空会社として知られています。

陸軍へ入隊 エンジニアパイロットへ

川西航空機が開発した九七式飛行艇

川西航空機に就職して間もなく、来栖は軍より徴兵を命じられます。1941年(昭和16年)1月に帝国陸軍の第8航空教育隊に入営、さらに横浜高等学校時代の経験を活かすため航技見習士官採用試験を受験しこれに合格します。ここでいう見習士官(みならいしかん)は、大日本帝国時代にあった役職名の一つで、高等機関まで卒業していることが一つの条件だったので誰でもなれる”見習い”とはまた意味が違います。また、この頃陸軍ではエンジニアとパイロットの両方をこなせる通称「エンジニア・パイロット」の育成に力を入れており、来栖は友人である畑俊八(陸軍大将・畑俊八の長男)の勧めも受けて、来栖はこの仕事に志願します。

多摩飛行場にて試験中の”烈風”

特別操縦学生として厳しい訓練の日々を過ごす来栖でしたが、1944年(昭和19年)1月に無事に卒業。エンジニア・パイロットとして多摩飛行場(福生飛行場)の陸軍航空審査部飛行実験部戦闘隊に配属されます。航空審査部は名だたるパイロットが在籍しており、来栖はそんなエースパイロット達と肩を並べながら仕事に従事します。また英語が堪能であったため、戦争備品の英語マニュアルや説明書の翻訳などで重宝されました。

突然の悲劇

作戦中の米空母ワスプに並ぶヘル・キャット

1945年(昭和20年)に入ると日本の戦況は悪化の一途を辿ります。さらに、この年の2月に米軍機により関東方面が攻撃を受けます(シャンボリー作戦)。2月17日に来栖良が属する航空審査部は、敵艦載機の迎撃のため出撃。当時陸軍大尉にまで昇進していた来栖は四式戦闘機・疾風に搭乗し、米軍機と激しく交戦し小型機1機を撃墜します。

九九式襲撃機に搭乗する来栖良

しかし、ここで悲劇が起こります。無事に基地に帰還した来栖は2度目の出撃をするべく滑走路を歩いていたところ、同じく緊急出撃を行った一式戦・隼のプロペラが来栖の前を通りこれに接触、プロペラ部は来栖の頭部に接触していたため即死でした。この時のプロペラ機「隼」の操縦室から、来栖は死角になっていたために姿を確認できず、ベテラン操縦士である梅川中尉でも対応できなかった事故だったとのことです。

その後

来栖良と家族たち

その後、来栖良の死は報道局で戦死という形で取り上げられ二階級特進し、陸軍技術少佐に特進しました。また、部隊葬が来栖の家族と航空審査部の将官以下軍人・軍属一同が列席した上で同部の格納庫にて行われ、彼の墓碑には父・三郎によって“In peace, sons bury their fathers. In war, fathers bury their sons.”(平和な時は、息子が父を葬り、戦争の時は、父が息子を葬る)というヘロドトスの言葉が刻まれました。そして来栖良の死から約6カ月後の8月15日、日本の降伏により遂に戦争は終結します。

父・三郎も1954年に世を去った

戦後、米軍の進駐軍将校たちが軽井沢の来栖家の別荘に訪れた際のことです。亡くなった軍服姿の来栖の写真を見て、「戦死したのは気の毒だが、これも日本軍の犠牲だね」と来栖良の母・アリスに語りかけたところ、アリスは「息子が祖国の為に戦い戦死したことを誇りに思います」と言葉を返しました。これを聞いた米軍将校はもう一度写真を見つめると「いい男だ」とだけ述べて立ち去ったといいます。

おわりに

現在、来栖良は靖国神社に祭られており、彼の姉妹の一人は御存命で2020年1月に日米関係の平和イベントなどで活躍なされています。また少し余談になりますが来栖良と妻・マサとの間には一人娘の扶沙子がおり、この扶沙子氏の夫が”闘将”として名高いプロ野球選手の故・星野仙一氏です。
世界大戦中、日本だけでなく世界各地で来栖良のように混血の兵士は多く存在しており、自分の祖国と愛する家族のために戦っていました。今回の彼の生涯を通して大戦中の”人種間”や日本社会で問題になるいじめ等に関して、来栖良の人生から学ぶことは多いのではないかと筆者は思います。

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