千利休の高弟と兄弟子~山上宗二と丿貫~

千利休の高弟と兄弟子~山上宗二と丿貫~戦国時代

・山上 宗二(やまのうえ そうじ 1544年 -1590年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての堺の豪商(町衆)茶人。

・丿貫(へちかん、べちかん、生没年不詳)は、戦国時代後期から安土桃山時代にかけての伝説的な茶人。名の表記は、丿恒、丿観、別貫などとも。なお「丿(ヘツ、ヘチ)」は、カタカナの「ノ」ではなく、漢字である。

茶聖と謳われた千利休ですが彼を語る上で欠かせないのがこの二人です。宗二は利休に長きにわたって茶を習い、後に天下人となった秀吉の茶匠となるも次第に不和となり非業の死を遂げることになります。一方の丿貫は若き頃より利休と共に茶道を極めるも当時盛行していた高額な茶器などは用いず、独自の茶道を追及しその清貧の中で茶の本来のあり方を世間に提示しています。今回はそんな茶の道を追及した両者について見ていこうと思います。

山上宗二~その生涯~

和泉堺の納屋家出身。屋号は薩摩屋。幼き頃より高価な茶器、名具に携わっていたため堺では評判の人物でした。利休といつごろ出会ったのかは不明ですが、若くして利休に師事し永禄8年(1565年)5月には宗二は千利休や草部屋設、武野宗瓦、今井宗久を招き茶会を催しています。

商人の街として栄えた堺

天正元年(1573年)11月、機内を制した織田信長に妙覚寺での茶会に招かれその才を評価されます。この時、明智光秀や後の古今伝授継承者・細川藤孝(幽斎)と親交を結んでいます。
天正九年(1581年)宗二は利休と共に播磨姫路城の羽柴秀吉を訪ね、秀吉から茶壷「四十石」を拝領します。その後、天正十年(1582年)に本能寺の変で信長が討たれると秀吉に接近し関係を深めていきます。

天下人となった秀吉

宗二は利休や津田宗久らととも「関白様召し置かる当代の茶湯者」として秀吉の茶頭の一人となりますが、次第に秀吉の行いに不満を抱くようになります。もともと宗二は「口悪きものにて、人のにくしみものなり」とも言われ、歯に衣きせぬ物言いによって人の憎しみを買うことが多い気質でした。また師である利休や他の茶人が秀吉に媚びへつらうように見えた宗二にとってこの現状は許しがたいものがあったのです。さらに利休が「わび」の追求に力を注ぐあまり「山を谷、西を東と茶湯の法度を破り、物を自由にす」と利休を非難するようになります。
宗二の態度は次第に激しさをを増し遂に秀吉の怒りを買います。天正十二年(1584年)秀吉の下を追放された宗二は北陸へ向かい加賀の前田利家に仕えます。その後、一旦秀吉に許され堺に戻りますが天正十四年(1586年)に再び怒りを買ったため堺を去り高野山に逃れます。

「山上宗二記」写本

高野山に逃れた宗二はここで己が今まで見てきた茶道具・茶人たちについて記した秘伝書「山上宗二記」を執筆し、自らの門弟たちや親交のあった大名たちに配布します。配布後、当時秀吉と敵対関係にあった関東の北条家の下に身を寄せるべく高野山を下山します。
天正十六年(1588年))北条家の治める小田原城に入城した宗二は手厚く迎えられ北条家の家臣達と親交を結びます。また当主である北条氏直からも気に入られた北条家の茶頭となった宗二は小田原にて己の茶湯を存分に奮い、小田原の町では宗二流の茶が大流行するほどでした。しかし、この栄華も長くは続きませんでした。

難攻不落と謳われた小田原城

天正十八年(1590年)豊臣秀吉は天下統一の総仕上げのため大軍を率いて北条討伐に乗り出します。宗二も小田原城の籠城に加わりますが、茶道を通して交友があった皆川広照が手勢と共に城を抜けて秀吉の包囲軍に投降する際、宗二も同行しました。

師である利休は最後まで宗二の身を案じていた

この時、師である利休は小田原に参陣していたため宗二に秀吉に謝罪するよう説得します。利休の仲裁により秀吉との面会が叶った宗二でしたが、ここで世話になった北条家宿老・北条幻庵を擁護する発言をしたため秀吉は激怒します。秀吉の怒りは凄まじく宗二の「鼻」「耳」をノコギリにて切り取り、苦しめてから斬首するよう命じます。享年46歳。
宗二の死は師である利休に大変なショックを与えることになり、これを契機に秀吉と利休の間に大きな溝が生じるようになります。

丿貫~茶仙と謳われた男~

京都上京の商家坂本屋の出身とも、美濃の出とも言われており前半生は不明な点が多い人物です。「わび茶」の祖とも言われる・武野紹鴎の下に弟子入りし茶を学び、ここで若き日の千利休と出会い丿貫は兄弟子として利休と共に茶の道を極めていきます。初めは如夢観と号し、後に改めて人に及ばぬという意味で、丿貫と号したのだそうです。

武野紹鴎

その後、京都山科の地へ庵を構えて寓居し、数々の奇行をもって世間の注目されるようになります。有名なエピソードとしては利休をを自庵へ招待した際、自庵の前に大きな落とし穴を設けておき何も知らない利休が穴に落っこちて泥だらけになると、沐浴させて新しい着物を供し、落ち着いたところで茶を提供するといった話があります。また丿貫は当時盛行していた高額な茶器などは用いず、独自の茶道を追求していたようで愛用の手取釜1つで茶の湯を沸かし、時にはそれで雑炊なども炊き客人にふるまったと言います。

清貧ながらも趣を追及した丿貫

天正15年(1587年)九州平定を終えた豊臣秀吉は朝廷や京都の民衆に自己の権威を示すために、北野天満宮にて大規模な北野大茶湯の野点を主催します。この茶会の規模はすさまじく大名諸将並びに大坂・堺・奈良からも大勢の参加者が駆けつけ、その数は総勢1000人にも達するほどのものでした。秀吉も自ら参加者に茶を振る舞い、この盛況に大変満足します。

北野大茶湯屏風図

そして茶会も午後に差し掛かり、秀吉が上機嫌で茶会を視察していると直径一間半(約2.7メートル)はあろう大きな朱色の大傘を携えた人物が現れます。その人物こそ丿貫であり、彼は中央に大傘を立てると質素で変わった茶席を設けたため周りの目を引き付けます。これには秀吉も大いに驚き、さっそく丿貫に茶を一杯所望すると丿貫はさっぱりとした味の薄いお茶を秀吉に差し出します。秀吉はこの茶会で既に色んな茶人のお茶を飲んでいるから、濃いめのお茶よりさっぱり喉を潤してもらったほうが良いだろうと丿貫は考え、あえて薄いお茶を秀吉に提供したのです。この対応に秀吉は喜び、褒美として丿貫に諸役免除の特権を授けています。

朱色の大傘(イメージ図)

北野大茶湯の後も丿貫は驕ることなく貧しくて質素な暮らしを続けていました。一方で弟弟子である利休は着々と豊臣政権の有力者としてその地位を不動のものとしていました。しかし、そんな利休を見て丿貫は嘆きます。

「利休は幼き時は心いとあつき人なりしに、今は志薄くなりて昔とは人変われり。人も二十年づつにして志の変ずるものにや。われも四十才にして自ら棄つるの志気とはなれり。
利休は人の盛んなことまで知りて、惜しいかなその衰うるところを知らざるものなり。世の移り変われるを飛鳥川の淵瀬にたとえぬれども、人は変われることそれより疾し。かかれば心あるものは身を実土の堅きにおかず、世界を無物と観じて軽くわたれり。みなかようにせよとにはあらねど、情欲限りありと知れば身を全うし、知らざれば禍を招けり。」

柳沢淇園『雲萍雑誌』より。

かつては共に同じ師に学び、熱い志をもっていたが20年の年月はその志をも変えてしまい、千利休の今後を丿貫は危惧していたのです。そしてその危惧は現実のものとなってしまいます。天正19年(1591年)利休は秀吉の逆鱗に触れ切腹を命じられてしまいます。果たして丿貫は利休の死をどう思ったのでしょうか。今となっては知る由もありませんが、その後、丿貫は京都山科を去り薩摩へと下ったと言います。丿貫は薩摩で余生を過ごし同地の著名人と交流した後、同地で逝去したと言われています。現在も鹿児島郡西田村に「丿恒石」なる塚が残されているそうです。

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