三国志人物伝 第五回 張悌

三国志人物伝 第五回 張悌三国志

張悌(ちょう てい、? – 280年)は中国三国時代の呉の政治家
字は巨先(きょせん)

呉最後の丞相である張悌は滅亡の淵に立たされた呉を救うべく自ら剣を取り、迫りくる晋の大軍を相手に命を散らした宰相として有名です。一般的な読み物としての三国志は諸葛亮の死、または蜀漢の滅亡にて幕を閉じますが、彼の戦いぶりと忠誠心を見る限り、呉の最後をもっと描いた三国志の物語が普及しても良いのではないかと思います。今回はそんな亡国と運命を共にした彼に迫っていこうと思います。

蜀漢の滅亡を予言する

長江

張悌は荊州襄陽に生まれ、若くして道理にかなった人物として知られていました。
時期は定かではありませんが、幼少期に諸葛亮に出会い、その才能を誉められたといいます。
その後、張悌は孫休が治める呉に仕え、屯騎校尉となります。呉の永安6年(263年)5月、魏の司馬昭は蜀の国内が疲弊していることを聴き及ぶと蜀の討伐の大軍を派兵します。呉の人々はこの情報を察知すると、多くの人は魏の失敗に終わると予想します。しかし、張悌はこれに反論します。

「蜀の皇帝は酒淫におぼれ、宦官の黄皓が政務を掌握し、民は疲弊しています。おそらく魏は蜀を滅ぼすでしょう」

これを聞いた家臣一同は大笑いしました。しかし、彼の予言は的中してしまいます…。
魏の鄧艾、鍾会率いる軍は、蜀の重要拠点である漢中を占拠、雪崩をうって成都に進軍します。
このとき、蜀から呉に援軍を求める使者がやって来ます。孫休はただちに魏領内に出兵しますが、時すでにおそし、蜀漢は滅亡してしまいます。こうして長年続いた三国鼎立は崩壊し、強大化した魏と、ますます不利な状況の呉の二国が中華に存在するようになります。

暴君即位

暴君孫晧

呉の永安7年(264年)、蜀の滅亡の翌年、君主孫休が急死してしまいます。
前年に蜀漢の滅亡、さらに南方の交趾が魏に離反するという国難に直面した呉の重臣一同は、新たなる君主に期待を寄せます。当初は孫休の遺児が次の君主となる予定でしたが、左典軍の万彧が孫晧を皇帝に推薦します。孫晧は「孫策の再来」と評されており、丞相の濮陽興と左将軍の張布がこれに賛同し、孫晧が次の皇帝となることに決まりました。しかし、この選択は呉に最悪の結果をもたらすことになります…。
孫晧は帝位に就いた当初は、人民を哀れみ、官の倉庫を開いて貧民を救ったり、官女を解放して妻のない者に娶わせたり、御苑を開いて鳥獣を解放するなどの政治を行い、明君と称されます。
しかし、次第にその本性が姿を現すようになり、暴君へと豹変します。
丞相の濮陽興と張布は度々孫晧を諫めますが、逆に孫晧によって処刑されてしまいます。
これを見た家臣一同は孫晧を恐れたため、孫晧はさらに凶暴化、呉の政治は悪化の一途を辿る一方になってしまいます。

忠臣立つ!

詩聖杜甫の先祖杜預

265年12月、魏の晋王、司馬昭の息子である司馬炎が皇帝曹奐に禅譲を迫り、晋帝国を建国します。司馬炎は一気に呉を平定したいと考えていましたが、国内がまだ安定していない事情もあったので派兵は見送られることになります。また、呉に名将陸遜の子の陸抗が健在であり、手出しが出来ない状態でした。さすがの孫晧も陸抗には手出しが出来ず、まさに呉の運命は陸抗が握っているようなものでした。しかし、呉の鳳皇3年(274年)、ついに陸抗はこの世去ります。
柱石を失った呉はますます衰亡の途を早めることになり、またこの年、追い打ちをかけるかのように呉の領内で疫病が大流行し、孫晧の暴虐はますます募ります。そして呉の天紀3年冬(279年)、遂に晋軍は呉の討伐に乗り出します。
20万と号する大軍は6方向より呉に侵攻を開始、対する呉軍は陸抗死後、まったく防備を増強しておらず、ただ長江の天険に頼るだけでした。迫りくる晋軍は迅速に呉の拠点を攻略、中でも杜預と王濬の軍が竹を割る勢いで建業に迫ります。(この進軍の様子から”破竹の勢い”という諺が生まれています)これを見た孫晧は狼狽し、直ちに迎撃を命じます。
晋軍を迎え撃つは張悌。悲しいことに丞相に任ぜられた直前の出来事でした。

国に殉じた丞相

晋軍の進撃路

張悌は孫晧の命を受け、沈瑩、諸葛靚、孫震らと共に3万の軍勢を率い長江を前に渡河しようとします。これを見た沈瑩は「河を渡って戦えば、勝てたとしてもこの地を維持するのは難しい。また、敗北すれば国家の危機は決定的となる。今は渡るべきでない」と進言します。しかし、張悌はこう言います。

「呉が滅びかかっているのは賢者でも愚者でも知っている。このまま敵の進撃を許せば、不安になった兵が逃散し、戦わずして降伏せねばならない。国難において死ぬ者が一人もいないのは、国の恥ではないか」

沈瑩や、他の者たちも張悌に従い、長江を渡ります。そして晋の張喬軍を攻撃し降伏させる事に成功します。またこの時、北方の鮮卑族の禿髪樹機能が反乱を起こしており、張悌は彼らに期待していました。張喬らを降伏させた際、参軍の諸葛靚は「張喬らの降伏は心から降伏したわけではありません。今後の憂いを取り除く意味でも全員殺すべきです。」と進言します。しかし、張悌はこれを却下し、そのまま王渾率いる晋軍と戦います。この時、沈瑩率いる「青巾兵」と号す丹陽の精兵5千は王渾率いる軍勢に三度に渡って突撃を繰り返します。
しかし、王渾率いる兵はこれを防ぎきり、呉軍劣勢と見た降将の張喬は再び晋軍に寝返ります。
これにより呉軍は挟撃される形となり、呉軍は壊滅してしまいます。諸葛靚は残った敗残兵をまとめて退却を進言します。全てを悟った張悌はこう答えました。

「身を以て国に殉ずることができるならば、どうして避けたりしようか!」

その後、制止する諸葛靚の手を振り払うと、張悌は片手に剣を携え、一人晋軍に突撃します。
泣きながら退却する諸葛靚が後ろを振り返ると、既に張悌の姿はありませんでした。また、最後まで戦った沈瑩、孫震も戦死。北方の鮮卑族、禿髪樹機能も馬隆によって敗死しました。
こうして呉の天紀4年(280年)2月、王濬率いる軍が建業に到達。
呉帝孫晧はもはや抵抗する意思はなく降伏、三国時代は遂に終わりを迎えました。

おわりに

二度亡国を経験した諸葛靚

一人退却した諸葛靚は、退却の途中で司馬伷に降伏し生きながらえました。
また彼は皇帝司馬炎と幼馴染であったため、司馬伷を通じて政務に参加するよう願ったが、彼は固持して受け入れず、そのまま隠遁してしまいます。諸葛靚の父は司馬氏に反乱を起こした諸葛誕であり、魏、呉と二度の亡国を経験した諸葛靚は晋の都がある洛陽の方向を向かなかったといいます。そして、諸葛靚の子の諸葛恢は後に晋の尚書令となり、晋の「中興三明」の一人となりました。張悌は死ぬ間際に、諸葛靚に「君の一族の丞相の恩に報いるときだ」と語ったといいます。
この丞相とは彼の最後から見て”諸葛亮”と見て間違いないと思われます。諸葛亮の国を思う熱き魂は、張悌に伝わり、そしてまた一族の子に引き継がれる…。まさに三国志のラストを飾るに相応しい人物であると個人的に思います。

おまけ

驚愕する陶濬

晋の侵攻を受け、交州の反乱鎮圧に当たっていた陶濬は敗残兵をまとめ、晋軍と決戦に挑もうとするも、一夜のうちに兵が逃げ去ってしまったそうです。

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