三国志人物伝 第七回 羅憲

三国志人物伝 第七回 羅憲三国志

羅憲 (ら けん、? -270年)は、中国三国時代から西晋にかけての武将。字は令則(れいそく)
蜀漢、晋に仕えた。

蜀の最後と言えば姜維と鍾会の反乱未遂事件が有名ですが、この事件の後、益州が危機的状況であったのを知る人は一部の三国志ファン以外は知らないのではないでしょうか。
今回紹介する羅憲はそんな危機的な状況の中、蜀の武将の面子にかけて孤軍奮闘し、見事益州守り抜いた羅憲について触れていきたいと思います。

譙周に師事する

劉禅の太子である劉璿の教育係でもあった譙周

羅憲は荊州襄陽軍の出身。父親の羅蒙は乱を避けて、益州に移住し広漢太守となります。
その後、羅憲は益州にて育ち、若干13歳にして文章を良く書き、早くに学問で名を知られるようになります。見識を広めるべく羅憲は勧学従事の譙周に師事します。譙周の下で羅憲は学問の才を伸ばし、メキメキ頭角を現していきます。そんな羅憲を見て譙周の門人達は「まさに子貢の如し」と評します。蜀漢の建興元年(223年)、劉備が死去し、子の劉禅が即位すると、羅憲は太子舎人・宣信校尉に任命されます。この時、宣信校尉として同盟国の呉に二度ほど赴いているが、呉の人々からその才能を賞賛され、名将としての片鱗を見せています。

巴東に左遷される

宦官黄皓

蜀の景耀5年(262年)、そのころ宮中では宦官の黄皓が国の実権を握るようになっていました。
黄皓は自身に背く恐れのあるものを劉禅に讒言したため、彼を恐れた蜀の臣は、見て見ぬ振りをするばかりで黄皓の専横を止める事ができずにいました。そんな中、羅憲は毅然として黄皓に意見し劉禅を諫めます。黄皓は羅憲を目障りに思い、彼に恨みを抱きます。
その後、黄皓の企みにより羅憲は呉との県境である巴東太守に任命され、宮中より遠ざけられてしまいます。巴東太守となった羅憲は、黄皓と関係があったとされる閻宇の副将として仕えることになります。しかし、この左遷が後に彼の運命を大きく動かすことになります。

揺れる永安城

劉備逝去の地でもある白帝城(永安宮)

蜀の炎興元年(263年)、魏は蜀が弱っていること察知すると、ただちに討伐軍を編成し鄧艾、鍾会に出陣を命じます。大将軍の姜維が奮戦するも、魏の鄧艾は陰平より摩天嶺を越えて成都を襲撃し、劉禅はあっさりと降伏していまいます。また、何の因果かこの時劉禅に降伏を進めたのは羅憲の師である譙周でした。
鄧艾が成都に進軍する際中、都督の閻宇に成都に召還せよとの命が出たため、閻宇は羅憲に2千の軍勢を委ね、永安を出立しました。その後、成都陥落の報が永安に伝わると、一部の将兵は城を捨て逃げ出し、城内の民衆は不安に駆られ、今にも暴動が生じようとする有様でしたが、羅憲は「成都が陥落した」と言いふらす者を切り捨てると、住民達を安心させ暴動を未然に防ぎます。
しばらくして、成都から劉禅が降伏したとの正式な知らせがあると、羅憲は配下の将兵を伴い都亭に赴き、三日間喪に服しています。そのころ、呉の孫休は蜀が降伏したことを知ると将軍の盛憲を派遣して西上させ、援軍と見せかけて永安城を攻略しようとします。
これを見た羅憲は激怒し呉軍に向かってこう言い放ちます。

「漢(蜀漢)の滅亡は呉の命運に関わることであるのに、呉は我が難を救わず、利益を求め盟約を違えようとする。既に漢は滅び、呉も永くは保たれないであろう!」

羅憲は徹底抗戦を決めると兵士たちを鼓舞します。永安の兵士たちは突然の呉軍の襲来に動揺していましたが、羅憲は自ら率先して鎧を繕い、城壁を修復し、兵糧をかき集め、節義を説いて部隊を激励したので、兵たちは羅憲を信頼し、彼の命令に従いました。

亡国は漢の意地の見せどころ

孫呉最後の名将とも呼ばれる陸抗

264年1月、姜維は鍾会と組んで成都にて反乱を計画するも失敗し、その余波を受けた成都は混乱し、益州は無政府状態となってしまいます。
蜀を得る好機と見た孫休は2月、増援として撫軍将軍の歩協を永安へ向かわせます。
羅憲は長江に臨んでこれを弓を射掛けて拒んだが防ぎきることができず、参軍に楊宗に囲いを突破させ、魏の安東将軍陳騫の下へ派遣し、司馬昭に援軍を送るよう要請します。
歩協の永安城攻略が上手くいっていないと見た孫休は、遂に名将陸遜の子、陸抗に永安攻略を命じます。陸抗の下には良将留賛、盛曼、そして精兵3万と、永安守備隊を圧倒する戦力でした。
羅憲は援軍を待ちますが、半年経っても援軍はやって来ず、逆に呉軍の包囲は勢いを増すばかり。
しかも城内で疫病が流行し、もはや落城は時間の問題でした。
この惨状を見た者たちは羅憲に脱出の策を説きますが、羅憲は首を横に振りこう言います。

「人主とは民が仰ぎ見る者であり、危急に臨んで民をよく安んぜず捨て去ることは、君子のなすところではない!」

羅憲は最後まで民衆を見捨てず、力の限り戦い続けました。

そして遂に、魏の胡烈が援軍として永安に到着、これ以上の包囲は不可能と悟った陸抗は兵を撤収させます。羅憲の活躍により呉の益州侵攻は頓挫し、羅憲は司馬昭により高く評価されます。
司馬昭は羅憲が信頼に足る人物と見ると、そのまま旧職を委ね、陵江将軍に任命し、さらに万年亭侯に封じます。また武陵郡の4県が呉に背いたため、羅憲は武陵太守・巴東監軍に任命されています。

晋に仕えて…その後

羅憲によって晋に推挙された陳寿

265年、魏皇帝曹奐は司馬炎に帝位を禅譲し、新たに晋帝国が建国されます。
晋の泰始2年(266年)、羅憲は司馬炎より入朝するよう打診され、これに応じます。
またこの時さらに昇進し、冠軍将軍・仮節となります。
泰始4年(268年)、司馬炎は詔勅を下して蜀の大臣の子弟について質問をし、官職を授けて用いるべき者は誰かと尋ねます。この時羅憲は費禕、陳祗、諸葛瞻の遺児たち、そして後に三国志を著す陳寿たちを推挙します。羅憲が推挙した者たちは良い人材ばかりだったので、司馬炎は彼らを重要し、多くの者が出世したようです。
その後羅憲は任地に戻ると、たびたび攻め込んできた呉軍から武陵軍を守り、呉軍を討つよう上奏し、対呉前線で睨みを聞かせますが、泰始6年(270年)、羅憲はこの世を去ります。
死後、朝廷より烈侯と諡されました。
もし彼が永安で奮戦していなければ呉軍は益州になだれ込み、通常より約200年ほど早く中国大陸は南北朝時代を迎えていたかもしれません。実際、彼は晋書に伝が立てられているので、晋の建国に大きな影響を与えたのは間違いありません。
また彼が司馬炎に陳寿を推挙していなければ、三国志という書物は存在していなかったことを考えると、羅憲は中国史に大きな貢献をした人物ではないでしょうか。

タイトルとURLをコピーしました