三国志人物伝 第四回 徐邈

三国志人物伝 第四回 徐邈三国志

 邈(じょ ばく、171年-249年)
中国三国時代の魏の政治家。
字は景山(けいざん)。

英雄豪傑の世界では酒は切っても切れない関係です。
三国志の世界でもそれは例外でなく、有名どころでは張飛や孫権のエピソードなんかがそうで、若き頃の蒋琬なんかも酒でやらかしています。今回紹介する徐邈も酒でやらかした人物です。そんな彼ですが、魏政権においては立派な実績を持つ人物であり、陰ながら諸葛亮の北伐阻止にも一役買っています。今回はそんな彼にスポットを当てたいと思います。

清聖濁賢(せいせいだくけん)

乾隆杯

建安5年(200年)、曹操は宿敵である袁紹を官渡の戦いにて勝利すると、河北の平定に乗り出しました。幽州広陽郡出身の徐邈はその際、曹操の目に留まりそのまま採用されます。
曹操は試しに彼を奉高(ホウコウ)県の県令に任命し、実力を試したところ、徐邈は善政を敷き、みごとに県を治めます。これにより徐邈は東曹議令史に任官され、中央の政務に携わるようなります。そんなある日、曹操は軍の深刻な穀物不足により禁酒令を布告します。
しかし酒好きの徐邈は禁酒令に背いて飲酒に及び、泥酔しているとこを趙達という役人に見つかり尋問されます。それに対し徐邈は「聖人に当たった」と上機嫌で返答します。

※上記の返答の意味ですが、”聖人”を”清酒”と掛け合わせたジョークだと言います。

趙達の報告を聞いた曹操は激怒し、徐邈を処刑しようとします。
しかし同郷で知人でもある鮮于輔が必死に弁護したため死罪を免れました。
このやりとりが”清聖濁賢”(せいせいだくけん)という四文字熟語の起源と言われています。

曹丕に皮肉られるも…

魏帝曹丕

建安18年(213年)、曹操は献帝より魏公の位を授かり、これにより後漢内に魏公国が誕生します。
徐邈も尚書郎に任命されますが、上記の一件もあってか、隴西太守・南安太守と地方の太守に任官されています。しかし、この辺りの土地は異民族も多く、統治が難しい場所です。
ですので曹操は徐邈の行政手腕を見込み、あえて派遣した可能性があります。
建安25年(220) 、魏王曹操が死去、曹丕が跡を継ぎます。曹丕が即位した後、能力を買われた徐邈は領内の各地の太守を任されます。その後、順調に功績を重ね、関内侯の爵位を授けられ列侯の一員に仲間入りを果します。その際、曹丕から「相変わらず聖人にあたっているのか?」と質問されます。冷淡な曹丕らしい対応ですが、徐邈は返答します。

「楚の公子の中には酒のせいで戦に負けた者がおり、魯の大臣は使者に赴こうとする者に酒の勢いで暴言を吐き、増税の罰を受けたとか。どちらも偉人ですが、私も彼らと同じ趣味を持ち、懲りずに時々当たっております。斉の閔王の妃は『醜』と評判でしたが、私は『酔』(醜と酒は同音)と評判になっております。」

これを聞いた曹丕は感心し、彼を撫軍大将軍軍師に任命しました。

北伐を阻止せよ!

蜀の桟道

黄初7年(226年)、魏帝曹丕が死去し、曹叡が跡を継ぎ即位します。これを受け蜀漢の宰相・諸葛亮は北伐の準備に取り掛かります。この動きを察知した魏は徐邈を蜀漢との国境地帯である涼州に派遣し、彼を涼州刺史に任命、蜀漢の襲来に備えます。そして228年、遂に諸葛亮は北伐を開始します。この時、諸葛亮は郿を奪うと喧伝し、宿将趙雲と鄧芝に陽動として褒斜道を進ませます。
魏はこの誘いに対して、大将軍曹真を派遣して諸軍を率いさせるとともに、これを郿に駐屯させて蜀軍に備えさせます。魏軍の陽動に成功すると、諸葛亮の本体は涼州方面に侵攻し、祁山へと兵を進めます。さらに蜀軍の事前工作によって、北伐に呼応して蜀に寝返る地域が続出し、天水、安定、南安の三郡が蜀漢へと寝返ってしまいます。これにより魏の雍州刺史の郭淮は援軍が来るまで後方へ撤退せざるを得なくなります。諸葛亮は配下の馬謖に街亭を任せ、手薄になった地域の制圧に乗り出します。
これを見た徐邈はさっそく周辺の太守らに呼びかけ、抵抗を呼びかけます。
事実、雍州が完全に蜀軍の手に落ちれば、重要拠点である長安は雍州、漢中の2方面から攻められる形になり長安の防衛は難しくなります。また、涼州には多くの異民族がおり、蜀軍が彼らと連携し中原に打って出てくる可能性もありました。徐邈は参軍と金城太守らを派遣し、南安の叛徒を攻撃し、これを撃破します。徐邈たちの活躍により、諸葛亮の涼州諸郡の鎮圧に手間取ります。
そうこうしている間に曹操時代からの名将・張郃が援軍として駆け付け、街亭を守備する馬謖を難なく撃破、逆に諸葛亮が孤立する形となってしまいます。このため諸葛亮は拠るべきところを失って全軍を撤退させます。開戦からわずか二ヶ月間の出来事でしたが、徐邈の活躍が魏の勝利に貢献したのは事実でしょう。

その後

涼州の地

諸葛亮はその後も北伐を敢行し、234年に五丈原で陣没するまで涼州、雍州方面に兵を繰り出します。このためこの地域一帯は戦火により荒廃してしまいますが、徐邈は農耕の充実を計画し、水を引いて灌漑を行い食糧の増産に着手します。また地域の異民族との友好に努め、西域のとの交易路の確保にも成功します。
魏の正始元年(240年)徐邈は大司農に任じられ、再び中央に帰還します。
その後、司隷校尉に昇進しますが、ある事件(また飲酒絡み?)により辞任します。しかし、すぐに官に復帰すると光禄大夫に任命されています。魏の正始9年(248年)遂に徐邈は三公と言われる高位の一つである司空に任命されます。
しかし徐邈はこの時77歳、拝命を受けたものの「然るべき人間が就くべき大任であり、老いぼれが務めるような職ではありません」と言い任官を拒否しました。翌年に魏の司馬懿がクーデターを起こしていることを鑑みると、魏の政権内部のきな臭さに徐邈は気が付いていたのかもしれません。翌年249年、徐邈は78歳でこの世を去りました。

さいごに

楽しく飲みましょう

徐邈は部下に施しをよく行ない、私腹を肥やそうとしなかったため、妻子の衣服も不足しがちな状況であったので、そのため明帝曹叡は随時支給を行ったといいます。また三国志著者の陳寿は「清廉にして徳を押し広める名士であった」と評しています。
曹操は彼が飲酒していると聞いて一時処刑しようと激怒していますが、筆者としては曹操も若いころは酒に酔ってご馳走に飛びついてベトベトになったり、新しい酒の醸造方法について研究したりと、あんたが言える口かと思ってしまいました。現代社会でも、昔さんざん夜遊びしていたサラリーマンが晩年出世し、若い人の酒の席の醜態を見て苦言を呈しているのを見ると、今も昔も人間の本質はそんなに変わっていないのかもしれませんね。

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