三国志人物伝 第十回 韓浩

三国志人物伝 第十回 韓浩三国志

韓浩 (かん こう、生没年不詳)は中国後漢末期の武将・政治家 曹操に仕えた。
字は元嗣 (げんし)

中原の覇者となった曹操ですが、その最初のきっかけである「魏武の強」の始まりは百万人近くの元黄巾族の兵士・流民を手中に収めてからだといいます。しかし、同時に食糧不足という問題に直面し、曹操を悩ませました。実際後漢の興平元年(194年)には蝗害と旱魃のため穀物の値段は1石50万余銭にもなり、中原一帯では人が人を食らう状態になっていました。
そんな状況を打開すべく、今回紹介する韓浩は屯田制を曹操に提言した人物です。
この屯田制が後に曹操が官渡の戦いで勝利できた一因であり、「安定した兵糧の確保」の重要性を証明しています。(それでも官渡の際はギリギリの兵糧であったといいますが…。)
また韓浩は曹操の右腕であった夏候惇とちょっとしたエピソードがあるので併せて紹介していきたいと思います。

若き日

任侠家で知られた王匡

韓浩は司隷河内郡の出身。戦乱のため故郷は荒廃し、山賊が横行していました。
これを見た若き韓浩は自警団を組織し、これを撃退します。
この働きを評価された韓浩は、河内太守王匡に取り立てられ従事に任命されます。
後漢の初平元年(190年)、専横激しい董卓を討つべく諸侯による反董卓連合が組織されると、王匡もこれに参加し、韓浩に一軍を統率させ、董卓領の孟津を攻めさせます。
この時董卓は一計を案じ、河陰県令であった韓浩の舅杜陽を人質にして韓浩を自軍に招き寄せようとしましたが、韓浩は拒絶し、軍を進軍させました。また、この話を聞いた袁術は彼の態度に感心し、韓浩を騎都尉に任命しています。そのころ、東郡太守となり白馬に駐屯していた夏候惇は韓浩の噂を耳にし面会を求めます。夏候惇は韓浩に会うと彼を絶賛し、韓浩を配下に加えることに成功します。これ以降、韓浩は夏候惇に従い曹操軍の一員として各地を転戦することとなります。

夏候惇を救う

夏候惇

夏候惇の下で兵を率いて戦いに明け暮れる韓浩でしたが、ある日事件が起きます。
興平元年(194年)、呂布が曹操の留守を狙い濮陽を襲撃し、夏候惇は迎撃にあたります。
しかし呂布の軍師陳宮の策に嵌まり、夏候惇は呂布軍に捕らえられてしまいます。敵は夏候惇の身柄と引き換えに金銀財宝を要求してきます。そのとき、副将の韓浩は毅然と言い放ちます。
「貴様ら悪党は人質を取りながら生きられると思っているのか‼我々は賊徒討伐の任を受けておるのだ!将軍一人の為に汝らの好き勝手にさせてたまるか!」
韓浩は軍法を守るため泣きながら背後に控える部隊に一斉攻撃を命じます。
驚いた敵軍は武器を投げ捨て、土下座をしながら必死に命乞いをしましたが、韓浩は彼らを責め立てて一人残らず斬首し、夏候惇を救出しました。この話を聞いた曹操は韓浩を誉め讃え「今後人質になった者がいても、人質に構わず敵を討つように」と新たに軍法を定めたので、これ以降人質を取られるものはいなくなったと言います。

屯田制を進言する

飛躍する曹操軍

建安元年(196年)曹操は献帝を許都に迎え入れます。この時、曹操は今後の政治の課題を諸将に議論させたところ韓浩は棗祗と共に急いで屯田を行うべきだと主張します。
通常、屯田は兵士たちに前線で農耕を行わせる「軍屯」が主流でしたが、韓浩たちが主張したものは「民屯」と言われる物でした。当時の中原の地は戦乱で荒廃し、大量の流民が発生していました。そこでまず流民を募集して放棄されている土地を彼らに貸し与え、耕作させて収穫の何割かを徴収する。これによって安定した兵糧の確保が出来るというのが韓浩たちの考えでした。
曹操はこの案を喜んで採用し、許都近郊での屯田を実施したところ大きな成果をあげることができました。こうして屯田に参加する流民の数は増えていき、人口の減少を食い止めることに成功し、逆に人口の増加にも成功しました。またしばらくして韓浩はこの功績により護軍への昇進を果たします。

護軍として中核を担う

夏侯淵

建安12年(207年)、曹操は官渡の戦いの後、中原の地をほぼ手中に収めると功臣20名余りを列候に任じ、韓浩も列候に任ぜられます。またその年の夏、烏丸族のもとに身を寄せた袁尚・袁煕兄弟を討つべく曹操は遠征を計画しますが、武将の史渙は遠征に消極的であったので、韓浩と相談し協力して曹操を諌めようとします。しかし韓浩は「殿の計画に遺漏は無い。兵士の士気を削ぐ様なことをすべきではない」と逆に史渙を説得し、韓浩は遠征に従軍、白狼山にてこれを打ち破ると、韓浩は中護軍へと昇進しました。建安20年(215年)、曹操は漢中の張魯を討つべく遠征をおこなうと、韓浩もかつての上司である夏候惇らと共に従軍し、張魯を降伏させます。
張魯降伏後、軍議で諸将は韓浩こそが漢中太守にふさわしいと意見しましたが、それを聞いた曹操は「韓浩の護軍がいなければ私が困る」と言い、代わりに夏侯淵を太守とし、共に鄴へと帰還しました。その後、没年は不明ですが韓浩は間もなく息を引き取ります。
曹操は韓浩の死を深く悲しみ、韓浩には子供がいなかったので養子であった韓栄に跡を継がせ、家名を保たせています。

おわりに

耕作に励む人々

韓浩の死後も魏軍の領内では屯田が行われ、三国鼎立後も魏は呉と蜀を相手にしても兵糧不足に陥ることなく戦い続けることができました。後の諸葛亮のライバルとなる司馬懿も213年に新しい屯田を行うべきと提案しているのみると、とても重要な政策であったことが分かります。
もし曹操が屯田を行っていなければ魏国という三国最強の国家は誕生していなかったでしょうし、このことを考えると、韓浩の屯田制は三国の歴史を分けたと言えるのではないでしょうか。

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