戦国武将伝 第二回 志賀親次

戦国武将伝 第二回 志賀親次戦国時代

志賀親次(しが ちかつぐ/ちかよし 1566年-1660年?)は戦国時代・安土桃山時代の武将。大友家の家臣。
洗礼名はドン・パウロ

「天正の楠木」と敵味方からも絶賛され、滅亡の危機に直面していた大友家を支えた名将です。
また親次は大友宗麟の孫に当たり、その影響を受けてか敬虔なキリシタンでもありました。
しかし大友家は反キリスト教の武将も多く、親次も周囲から批難を受けたり、後年は改易の憂目にあったり、晩年については謎が多かったりと、なかなか波乱万丈な生涯を送っています。

キリスト教に出会う

十字架(イメージ図)

豊後の大友氏の一族・志賀氏の北志賀家当主である志賀親度の子として誕生しました。
北志賀家は大友三家の一角である志賀氏の嫡流であり、祖父の親盛、父の親度の時代には豊後南部に根を張る同紋衆の南部衆筆頭でした。
親次は幼いころから武勇に優れており、また義母が大友宗麟の義娘であったことから、宗麟に気に入られるようになります。また、親次が12、3歳ごろに宗麟の嫡子・大友義統の奥方の侍女が義統の勘気に触れ追放されてしまい志賀家に逃げ込んできます。侍女の名はイザベルという洗礼名をもつキリシタンでした。そんなある日、親次は彼女が十字を切る姿を目撃します。
この時、親次はイザベルからキリスト教について詳しい話を聞いていくうちに、次第に自分もキリスト教徒になりたいと思うようになります。しかし親次の父である親度は生粋の仏教徒であり、親次のキリスト教入信など許すはずもありません。

現在の八幡奈多宮

若気の至りもあったのか、居ても立っても居られなくなった親次は父と臼杵を訪ねた際、真夜中に教会に出かけ、教会の教えを朝日が昇るまで聞き続けました。その後、親次はしばしば教会に通い、教徒になるための洗礼を受けようとしましたが、教会に通っていることが大友宗麟の妻である奈多夫人に見つかってしまいます。奈多夫人は八幡奈多宮の大宮司・奈多鑑基の娘であり、宗派の違いもあってか大のキリスト教嫌いでした。
奈多夫人はこのことを親次の父・親度に報告し、これを聞いた親度は激怒します。
親度は棄教を親次に迫りますが、親次は断固として拒否したため、親度は親次を厳重な監視下に置き、行動を見張ります。しかしキリスト教に深く傾倒していた主君・大友宗麟と教会の働きによって監視は解かれますが、結局洗礼は許されませんでした。

家督相続と大友家の危機

大友宗麟

天正12年(1584年)7月、親次は黒木家永が守る猫尾城攻めに参加し活躍します。
また同年9月に父親度が宗麟の嫡子大友義統と不仲になり失脚すると、親次は19歳の若さで家督を継ぐことを命じられます。家督を継いだ親次は遂に長年の夢であった洗礼を受けようと決心します。そして天正13年(1585年)、親次は教会より洗礼を受け、キリシタンとなります。またこの時洗礼名としてドン・パウロという名を授かっています。
その信仰熱は相当なものだったらしく、自らの腕に十字の刺青を彫ったと言われています。
しかし、父親度はこれを知ると再び激怒し、大友義統を通じて今度こそ棄教させようとしましたが、それでも、親次は「例え家督を返上しようともキリシタンは棄てない」と断言します。
こうして正式にキリシタンとなった親次でしたが、主家である大友家は凋落の一途を辿っていました。

大友家重臣・立花道雪

主君の大友宗麟はますますキリスト教に深入りするばかりで家中を顧みず、家臣団は分裂状態になっており内乱が頻発、さらに重臣であった立花道雪がこの世を去ると、肥前の竜造寺家や薩摩の島津家の侵攻により多くの領土を失ってしまいます。
そして天正14年(1586年)、肥前の竜造寺家を支配下に置いた島津家は大友領豊後に侵攻を開始します。大友家に最大の危機が訪れようとしていました。

天正の楠木!鬼島津を退ける!

現在の岡城跡

天正14年(1586年)10月中旬、島津義弘を総大将とした軍勢3万は肥後路から豊後に侵入します。
親次を含めた大友軍は迎撃の準備に取り掛かります。しかし、ここで事件が起こります。
なんと親次の父親度が大友氏重臣の入田義実と共に島津家に寝返ってしまいます。
諸説ありますが、もともと熱心な仏教徒である親度はキリスト教を信仰する息子と大友家に愛想を尽かしていたことや、宗麟の嫡子である義統と不仲であったためと言われています。
動揺した他の大友家の南郡衆までもが島津家に寝返る中、親次は旗下の兵1500を率いて波野原に出陣し、島津軍の進行を遅らせることに成功します。
しかし圧倒的な兵力差の島津軍を前に親次は撤退を余儀なくされ居城である岡城に籠城し、島津軍を迎え撃ちます。

岡城縄張り図

これに対し、島津義弘と新納忠元率いる3万の軍勢は岡城を攻めるも苦戦してしまいます。
岡城は三つの河川から成る天然の堀と標高80メートルの山城であるという利点を持っており、また親次の奮戦によって迂闊に攻めることが出来なかったのです。
結局義弘と忠元は岡城には押さえの兵を残し、義弘はその支城の攻略を行なうためこの場を離れます。しかし、抑えを任された稲富新助は功名を焦り岡城を攻撃するも、これを予測していた親次は伏兵と鉄砲隊を率いてこれを撃破します。
これを好機と見た親次は周辺の諸城を奪回、府内方面に進出していた島津義弘は急いで岡城へと軍を戻します。そして再び大軍を前にした親次はある計略に打って出ます。

鬼島津の異名を持つ島津義弘

天正15年(1587年)2月、親次は義弘に対し「岡城付近の鬼ヶ城にて決戦を行おう」と宣言、義弘はこの申し出を受諾し一気に鬼ヶ城に進撃するも、親次は高所に配置していた兵を一斉に駆け下らせ島津軍を蹴散らします。この奇襲により島津軍は多くの将兵を失ってしまい、島津義弘はやむを得ず撤退し、岡城攻めを中止します。
義弘は軍の立て直しを余儀なくされ弟の島津家久の軍と合流し、再び岡城攻めを計画します。
しかし翌月に豊臣秀吉の弟・豊臣秀長率いる島津討伐の大軍が九州に到着したため島津軍は薩摩へと撤退、親次は周辺の城を奪還すると同じく豊後にて奮戦していた佐伯惟定と共に島津軍を追撃し、反乱した南郡衆を滅ぼし父親度を自刃させます。
その後、島津家は日向根白坂にて豊臣軍に決戦を挑むも、虚しく敗れ降伏します。
戦後、親次は豊臣秀吉よりその活躍を絶賛されます。また親次の活躍は九州全土に伝わり、敵味方問わず親次は稀代の謀将・楠木正成にならって「天正の楠木」と呼ばれるようになります。

文禄の役

抜群の武功で名を上げかつ名族でもある親次は祖父の志賀親守の後見を受けて所領を拡大し、大友氏家中において発言力を強めます。
しかし宗麟の死後、跡を継いだ義統はあまり志賀家に対して良い感情は持っておらず、かえって疎まれてしまいます。さらに豊臣秀吉により発令された棄教令により義統はキリスト教を棄教してしまいます。

将器に欠けていた大友義統

また、親次は豊後におけるキリシタンの保護者となっていましたが、親次が義統の嫡子・大友義乗と共に大坂の秀吉の下へ赴いている隙に豊後内の宣教師たちを追放してしまうという事件が起こり、両者はますます不仲となってしまいます。
天正20年(1592年)、文禄の役に参陣し、義統と共に朝鮮に渡海します。
初戦は破竹の勢いの豊臣軍でしたが、明の援軍が到着すると戦闘は激しさを増します。
文禄2年(1593年)、平壌城の戦いで明軍に包囲されていた小西行長から援軍要請が来ます。
しかし、義統は行長は戦死したとの誤報を信じてしまい戦場より撤退してしまいます。さらに義統は居城である鳳山城も放棄してしまいます。

文禄の役

その後、行長は自力で包囲を突破し脱出に成功したため、必然的に義統の行動は窮地の味方を見捨てた上、戦線離脱という形となってしまいました。
これを知った秀吉は激怒し、大友家改易を言い渡されてしまい、親次も所領を失ってしまいます。
また、平壌城での撤退を進言したのは親次という説もありますが、戦上手の親次が判断を誤るとは到底考えられず、親次の活躍を妬んだ人物たちによる中傷の可能性があると言われています。

その後の親次

所領を失い浪人となった親次ですが、秀吉から日田郡大井の荘1,000石を与えられます。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると旧主大友義統が旧領奪回を目指し、豊後にて挙兵するとこれに参陣します。一説によれば親次はこの後の石垣原の戦いで戦死したとも言われています。

石垣原の戦い跡地

その後西軍についた親次、義統共に完全に領地を失い、大友義統は慶長15年(1610年)に流刑地先の常陸でこの世を去ります。また親次はその後各地を転々としており、福島正則、小早川秀秋、毛利輝元などにそれぞれ仕えたと言います。
そして、万治3年(1660年)、親次は95歳(一説で93歳)にてこの世を去ります。
永い間、彼の終焉の地はどこであったのか不明でしたが、近年山口県宇部市に親次の墓があることが判明し、子孫は同地に残っていると言います。また姪である清田幾知が細川家に嫁いでおり、一部の子孫はそれを伝手に細川家に仕えたとも言います。

山口県宇部市にある親次の墓

最後に親次が活躍した岡城には中川清秀の次男・中川秀成が入城し、豊後国岡藩初代藩主となります。親次がかつて治めていた影響もあり領内には多くのキリシタンがいましたが、中川家はキリシタン大名と名高い高山右近と親族であり、その影響もあってか秀成はキリスト教に寛容であったと言います。江戸時代初期には島原の乱などの影響もありキリシタン弾圧は激しくなりますが、岡藩で大勢のキリシタンが信仰を守ることができたのは、紛れも無く志賀親次の功績と言っていいでしょう。

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