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戦国時代

津田清幽 【石田三成の三男を救うべく家康に直訴した侍】

慶長5年の1600年9月15日(西暦1600年10月21日)に徳川家康は天下分け目の関ヶ原の戦いにて勝利すると、翌日、2万を超える軍勢を石田三成の居城である佐和山城に差し向けこれを包囲します。この時、籠城する佐和山城の一角を守備していた兵の中にかつて家康に仕えていた武将が今回紹介する津田清幽です。この清幽、なんとこの佐和山城落城を巡る東軍の不義に怒りが爆発し、家康の本陣まで乗り込んだという剛直の士でありました。今回はそんな剛直の士についてお話していきます。
南北朝時代

真弓広有 【怪鳥・以津真天を射ち倒した弓の名手】

後醍醐天皇が建武の新政を始めた1334年ごろ、内裏の正殿である紫宸殿の屋根の上に鳥の姿をした妖怪「以津真天(いつまで)」が毎晩現れるようになります。この妖怪により京都では疫病が起こり困った公卿たちは、弓の名手として名を馳せていた「真弓広有」に怪鳥退治を依頼します。そして、広有は見事期待に応え怪鳥を仕留めることに成功します。今回は、京都に疫病をもたらした怪鳥「以津真天」を得意の弓で退治した真弓広有にスポットライトを当てていこうと思います。
日本史

中村天風 【あの大活躍メジャーリーガーも学んだ稀代の伝道師】

1919年(大正8年)に創立された財団「天風会」は、中村天風が「命の力」を発揮するために考案した「心身統一法」の普及と啓蒙活動を行っています。これは何を目指すものかといいますと、幸せで充実した毎日を過ごし、「成功と繁栄」、「健康と長寿」、「心の平安と安心」という3つの幸せをつかみとろうということなのです。心身統一法は、心と体の両面の多岐にわたる方法からなっており、普段の生活を送りながら、積極的な心をつくり、健康な身体をつくっていくことができるようになるものと言われています。この心身統一法を考案した、財団の名前にもなっている中村天風、本名中村三郎、1876年(明治9年)に生まれ、1968年(昭和43年)に92歳で亡くなったその人の波乱の人生をご紹介しましょう。
サブカルチャー

トーベ・ヤンソン ムーミンを作ったフィンランドの女性作家

トーベ・ヤンソンは人気キャラクター「ムーミン」を作った小説家です。日本においてはTV アニメで親しまれていますが、始まりは小説となります。また日本で製作されたテレビシリーズ3作目の「たのしいムーミン一家」が好評となり、そこから世界60か国に放送され人気を博したという経緯があります。小説のほかムーミンの絵本やコミックも手掛けたトーベ・ヤンソンですが、2001年86歳で亡くなるまでムーミンのさまざまな活動に精力的に携わっています。今回はムーミンを作ったフィンランドの女性小説家トーベ・ヤンソンの生涯についてです。
戦国時代

松浦隆信 【南蛮交易によって隆盛を築いた海賊武将】

経済政策に重きを置いた戦国武将と聞くと、ほとんどの方は織田信長あたりを思い浮かべると思いますが、今回紹介する松浦隆信は弱小勢力でしかなかった松浦家を南蛮貿易により躍進させ、巧みに九州の戦乱を掻い潜り江戸時代における平戸藩の礎を築いた人物であります。そんな九州平戸の戦国武将について紹介していこうと思います。
第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線)

ヴォイテク ~ポーランド軍の兵士になったクマ~

2次世界大戦真っただ中の1942年、イギリス軍と合流すべくエジプトを目指し行軍していたポーランド軍第22弾薬補給中隊ですが、ポーランド難民から赤ん坊を引き取ります。この赤ん坊は軍隊のなかですくすくと成長し、最終的に伍長に任命され、1947年の軍隊解散のときまで第22中隊と行動をともにしました。…が、実はポーランド軍がイランの山中で引き取ったのは、シリアヒグマの赤ん坊だったのです。ヒグマが軍隊とともに生活し、伍長の階級まで与えられるなんて、にわかには信じがたいですが、このヒグマには軍籍番号や軍隊手帳が発行され、たばこや現金が支給された記録が残っています。今回はポーランド軍に従軍したシリアヒグマの数奇な運命を辿ります。
ミステリー・事件

悪魔の核デーモン・コア ~恐怖の臨界実験~

今回紹介するデーモン・コアは、戦後、日本の降伏によって投下されることなく、実験用となったプルトニウムの未臨界塊です。本来なら放射性物質の実験は厳重な体制の中で失敗は絶対に許されないのですが、安易に実験を行ってしまったため、取り返しのつかない大事故を起こしてしまいます。今回は驚異的な核物質デーモン・コア(悪魔の核)の恐怖の実験に関してお話します。
戦国時代

戦国三大美少年 【乱世に生きた三人のイケメン武将たち】

いつの時代にもイケメンと呼ばれ、世間でもてはやされる人たちはいますが、今回紹介する三人も「天下三美少年」、あるいは「戦国三大美少年」と謳われていました。この三人は武将としてはあまり功績といったものはないのですが、その見た目の良さからか、後世で歌舞伎の演目や書籍のネタ等で扱われていたりします。今回はそんな乱世のイケメン三人を紹介します。
スポーツ

沢村栄治 戦場に散った悲運の大投手

1944年(昭和19年)12月2日、太平洋戦争の真っ只中、海外の戦地へ陸軍兵を輸送する日本の海軍の船が、アメリカの潜水艦の攻撃を受け沈没しました。あっという間のことで、乗組員と兵たちはなすすべもなく海の藻屑と消えてしまったのです。屋久島沖西方でのことだったようです。 その中のひとりが、不世出の大投手、沢村栄治でした。そのときわずか27歳、3度目の応召のときでした。なんとも残念な話です。同じく戦前から巨人軍のエースであった同一学年のヴィクトル・スタルヒン投手は沢村と同じく1934年にプロデビューし、その後1955年までプレーを続けています。平穏な時代であったなら沢村栄治も同様に長くプレーを続け、日本の野球史にどれだけの足跡を残したかと思うと惜しまれてなりません。今回は悲運の大投手、沢村栄治についてお伝えします。
幕末

清水次郎長 伝説の海道一の大親分

皆さんは清水次郎長という人物をご存知でしょうか?江戸末期から明治初期を生きた侠客ですが、何をしたかまで覚えている人はいかほどにと言う感じです。清水次郎長は博徒で強大な集団を作り上げ、清水を縄張りとしたヤクザでもありました。そして人生半ばからは喧嘩・博打業から足を洗い、流通業と国家発展のため実業家として生きていくことになります。なかなか肩書きをまとめにくい人物でもありますが、本記事では清水次郎長の人生について解説していきます。
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